「疲れた……」
犬のようにハァハァと舌を出しながら、砂浜に敷かれたビニールマットに倒れこむ。紅白のパラソルが直射日光を遮っているとはいえ、熱砂にあぶられたマットは予想以上に温かかった。
「大丈夫ですか? 秀晃さん」
上空より聞こえてきた声に、ゴロリと、身体の上下を入れ替える。
隣にいたのは佐倉雪乃だ。大きめの麦藁帽子の下に心配そうな表情を鎮座させて、こちらの表情を覗きこんでいる。
「あー、多分まあ、大丈夫なんじゃないかなーって思うけど……」
勢い込んで上半身を起こすと、ふっと、視界が暗くなった。
立ちくらみだろうか。意識も同時にすぅっと遠くなっていって、目覚めた後、俺は何度か頭を振った。
「もう、はしゃぎすぎですよ」
「……いや、絶対、俺のせいじゃないと思う」
と、未だに戻る気配のない二人の相貌を思い起こしつつ、口を開く。
観月華蓮と、矢野原まきえのことだ。
旅は人を開放的にさせるとはよく言われるが、正直、俺をダシにして意地を張り合う回数まで開放的にならないで欲しい。
「ふふ、待っててください。何か冷たいものでも買ってきます」
微笑して、座りっぱなしだった雪乃が不意に立ちあがった。こちらの返事も待たずに、人波を縫って砂浜をザクザクと駆けて行く。
「そんなに急がなくてもいいからな――――」
一応叫んだものの、足取りが緩まったようには見えなかった。
ちなみに彼女が着ているのは水着ではなく、ハイネックのワンピースと、薄手のパーカーだ。おまけにニーソックスまできっちりと着用していたりするから、大量の素肌が乱舞する真夏の海水浴場では、微妙に浮いているようにも見える。
スカートのひるがえりも含めて、雪乃の一切合財が人波に消えると、俺は再びマットの上に横になった。
緑王町では味わえない鮮烈な蒼穹が、ビーチパラソルの端よりかいま見える。ふっ、と息をつくと同時、自分がどこにいるのかを思い出して、俺は苦笑した。
「……青いよなあ。沖縄の空は…………」
今朝方、本土で見ていた空の色とは明らかに違う。
ちなみに、ほんの五時間ほど前の記憶との比較である。飛行機という文明の利器がもたらした恩恵なんぞに多少の感銘を覚えながら、俺は一息をついた。
「――お待たせしました、秀晃さん」
買い出しに行った雪乃が戻ってきたのは、それから少し後のことだ。
ぼんやりと空を――ときおり海を――眺めていた俺は、声のした方向に顔を向けると、わずかに顔をしかめた。
戻ってきた雪乃は息も絶え絶えで、人の忠告を聞かずに全力疾走してきたことが丸分かりだったのである。
「サンキュ、でもそんなに急がなくても良かったんだぞ」
「……だって急がないと、秀晃さん、暑さと疲労で倒れてるかもしれないじゃないですか」
雪乃は上気した表情に微笑みをたたえると、掌中に掴んでいたものを一つ、すっと差し出した。
「えーっと、これ、氷のう?」
「……かちわりです」
「甲子園球場か、ここは……」
微妙に頭を抱えつつ、氷水が詰まった透明のビニール袋を受け取った。
まあ、ひんやりとして、気持ちいいことには変わりない。
袋から伸びたストローに口をつけてしばし、俺はどうにも、ひどく落ちつきのない気分に苛まれた。
その原因が、いかにも無理してますといった笑顔で尋ねてくる。
「……カルピスで良かったですか?」
「いいから雪乃も飲め。お前の方がぶっ倒れそうだぞ」
それともう一つ、人にまじまじと眺められながら飲食をすると言うのは、結構気になるものだ。
「……あ、そうですね……」
と、ぼんやり呟いた雪乃の身体が、ふらぁ、と傾いてゆく。
「――――」
だからいわんこっちゃない。砂浜に顔をうずめてしまう寸前で、俺はどうにか雪乃の身体を抱きとめた。
そのまま抱き上げて、ビニールマットに横たえる。
意識がない。おそらくは日射病だろう。少しでも涼しくしてやろうとパーカーに手をかけたところで、俺はためらった。
四季を問わず、雪乃がいつも全身を被う服装をしているのは何故だったか、思い知らされたのである。
ちらりと見てしまった左肩の傷に顔をしかめていたその時、背後からすぅっと影が伸びてきて、俺の手元に陰りをさした。
「なに、してるの、秀晃くん?」
と、同時に聞こえてきた声に、慌てて振り向く。
やはりと言うべきか、想像通り華蓮だった。
自慢の長い髪をポニーテールにし、一時間以上人を付き合わせて選びやがった水着を着たそのさまは、心底刺激的である。
だが今の場合一番刺激的なのは、大胆にさらけだされた肌やプロポーションとかではなく、ぷるぷると怒りに震える拳だった。
「うっわー、雪乃ってば、だいたーん。なに? 脱がしてもらってるの」
と、遅れて戻ってきたまきえが口にした余計な一言で、俺も誤解の深刻さを悟る。
「い、いや華蓮、これは違うぞ、これには深ぁい訳があってだな――」
雪乃のパーカーから両手を離して、身体の前でぶんぶんと振るう。
罪人の魂をいたぶる鬼卒のように、華蓮がゆっくりと微笑んだ。
「秀晃くん……」
「は、はい」
「言い訳する時のその枕詞……いいかげん聞き飽きたのよねえ」
「え――――」
と、俺が絶句した瞬間をついて、『ラ・パルティータの闘牛』が拳を振るう。一撃必倒の平手打ちを頬に食らい、脳裏にお星様をちらつかせながら俺は砂浜へと倒れこんだ。
朦朧とする意識の中、何でこんな面子で沖縄旅行をすることになったんだろうなあ――と、微妙な後悔が脳裏をよぎった。
『彼女が水着に着替えたら……?』
作:藤正
ややあって、頬の痛みも沈静化してきた頃のことである。
俺は海の家の一室に雪乃を運び込んで、華蓮と看病に勤しんでいたのだが――、
「もう、早く言ってくれれば良かったのに」
今更のようによそ行きの笑顔を浮かべた華蓮が、俺の頬に、濡れたタオルを当てた。
麦藁帽子をうちわ代わりにして、横になった雪乃に微風を送っていた俺の手が、一瞬、ピタリと止まる。
「あのな、人の話を聞こうともしなかったくせに、そういう口を叩くか、普通?」
「まあ、そこらへんは、日頃の行いが悪かったってことでクリアしてくれると嬉しいかな、恋人としては?」
「……俺って、そんなに信用ないのか?」
少なくとも華蓮が戻ってきてからは、彼女一筋だと(一応)断言していいと思う。
「少なくても、彼女たちに関してはね。……いつ雰囲気に流されちゃうか、分かったもんじゃないもの」
「…………」
「大体この沖縄旅行だって、彼女たちの『お願い』に負けちゃったからでしょ? 来る羽目になったのは」
「まあ、そうだけど――――」
生返事をした俺は、一ヶ月ほど前の出来事を思い出していた。
商店街のくじ引きで沖縄旅行を当てた雪乃らは、旅行に行くためには保護者が必要なので同行してほしい――と、俺に請願してきたのだ。
ちなみに智津子さんの代役でもある。
大学の用事が入って付き添えなくなったと悔しがっていたが、だからといって、人の恋路に不幸の赤信号を灯しかねない行いを、簡単に承認しないでほしい。
「まったく、困った人だよなあ、智津子さんも……」
彼女が一言『ダメ』と言ってくれれば、俺たちがこうして沖縄にまで付き合う必要はなかったのである。
当人に向かっては口が裂けても言えないことを幾つか口ずさんでいると、鈴の音のような小さな笑い声が唐突に聞こえ始めた。
「……ふふ、駄目ですよ、秀晃さん。そんなこと聞いちゃったら……私、いつお姉ちゃんに、ポロッと口を滑らせちゃうか分かりませんよ?」
「――ゆ、雪乃? 気が付いたのか」
動揺も手伝って、俺は声を荒げた。
「……ええ、まだ頭の中が、ぼーっとしてますけど……」
「こら、まだ起きちゃ駄目」
ペットボトル片手に、華蓮が小さく叱りつける。
「大丈夫、雪乃ちゃん。ほら、これ飲める?」
「……あ、はい。何とか…………」
差し出された飲み口に唇をつけると、雪乃はこくこくと、それを数口飲み込んだ。
喋り方といい、目の色といい、未だに夢見ごこちな感じである。
華蓮もそれに気付いていたようで、わずかに顔をしかめると、雪乃の耳元でこう囁いた。
「……雪乃ちゃん、無理に起きてないで、もうちょっと目つむってた方がいいわよ」
「――分かり、ますか?」
「当たり前だ」
俺は短く答えると、氷のうが乗せられた雪乃のおでこを、こつんと指で弾いた。
「まあ、日焼けしたくないって気持ちも分かるけどね。これに懲りたらもう、真夏の海辺を甘くみない方がいいわよ」
華蓮が調子に乗って、説教くさげに人差し指を立てる。
「それに第一、もったいないじゃない。せっかく沖縄に来たっていうのに、全然泳がないなんて」
「――おい、華蓮」
「……そう、ですね。……努力します」
雪乃はそれだけ答えると目を閉じて、眠りの世界に舞い戻った。
「秀晃さーん」
ややあって遠方より、とたとたといった足音が近寄ってくる。
勿論まきえである。彼女は雪乃の身体をより冷やすため、氷を調達しに行っていたのだ。
「いやーお待たせしました。それで、雪乃の容態は?」
「うん、だいぶ落ちついたみたいね。さっき、ちょっとだけ目を覚ましてたし」
「うわーっ、残念。そうかー、雪乃ってば、あたしがいない時に限って目を覚ましてたんだ」
「こら、静かにしろ。せっかく眠ったんだ。また起きたらどうする」
そう言うと、流石にまきえも口をつぐんだ。
「あ、秀晃くん、風はしばらくいいから、ちょっと、向こうに行っててくれる?」
「へ? なんでまた……」
「……身体をふくのよ、ほら、この氷水で」
水を張った洗面器に氷の半分をぶちまけると、華蓮は半眼でもって、俺の瞳を見つめてきた。
覗くな、と言っているのはよく分かったが、出来たての氷水にタオルを浸していた華蓮に向けて、俺は慌てて叫んだ。
「待ってくれ!」「待ってください!」
予想外の反応だったのか、華蓮がおっかなびっくり動きを止める。
「ちょっと、どうしたの秀晃くん? それにまきえちゃんまで」
「う、そ、それは―――」
俺が説明をためらっていると、まきえが、意を決して口を開いた。
「あの、あたしたちの口から理由は言いづらいんですけど……華蓮さんにそれをされたら、雪乃、後ですごく悲しむと思うんです」
その真剣な表情に、華蓮も言いかけた言葉を飲みこんだ。
「まきえちゃん? それって一体――」
「だから……その……申し訳ないんですけど……それあたしがやりますから、華蓮さんもしばらく向こうに行ってていただけませんか?」
「あ、うん」
華蓮はどうにも釈然としない様子だったが、一応は笑顔を作って、まきえに語りかけた。
「それじゃ、このタオルを使って、上半身を拭いてあげてくれる?」
「は、はいっ」
間髪いれずに返答したまきえに向けて、華蓮は続けざまに言った。
「パーカーは、あたしが脱がしておくから」
「――よせ、華蓮!」
と、慌てて止めようとするも、今度こそ遅かった。
経験上分かっているのだ。左肩の傷は、ほんのちょっとめくっただけでもその姿があらわになってしまう。
パーカーをめくった華蓮は、そのままの状態で、呆然と動きを止めてしまっていた。
運が悪いことに――その一言で片付けてよろしいのならばだが――、規則正しく繰り返されていた雪乃の寝息が、ピタリと止まる。
「…………?」
寝ぼけ眼が華蓮の姿を捕らえた時、その手は未だに、雪乃のパーカーへとかかったままだった。
声にならない悲鳴をあげて、雪乃が全力で、華蓮に背中を向ける。
「ご、ごめんね。……その、身体をふいてあげようと、思ってたんだけど――」
華蓮は何歩か後ずさりながら謝罪の句を紡いだが、返答は、全くなかった。
正直、すすり泣くような声が聞こえてこなかっただけでも、良好だと思う。華蓮は世界の全てを拒絶しているような雪乃の背中から視線を逸らせると、もう一度だけ呟いた。
「ごめんなさい」
返答は――やはりない。
やがて沈黙に耐えられなくなったか、華蓮はついに逃げ出した。
「華蓮!」
叫びつけるも、声そのものに直接的な拘束力があるわけではない。
後を追わんとした俺は部屋の入り口で振りかえると、まきえに向けて素早く声をかけた。
「まきえ、雪乃を頼む。先にホテルに帰っててくれ」
「あ、はい――」
まきえの返答を確認して後、ただちに駆け出す。海の家から出るまでに若干の時間差があったが、幸い、見失うことはなかった。
「おい華蓮! 待てよ、待てったら!」
二昔前の恋愛物でも滅多に見られないシチュエーションだと思いつつ、全力で華蓮の後を追いかける。
しかし、華蓮もわりとしぶとい。
しばしの間、後日回想したら顔から火を吹きそうなほど恥ずかしい鬼ごっこに興じていた俺たちだが、先に諦めたのは華蓮の方だった。
……転んだからである。
俺は華蓮の傍に膝をつくと、「大丈夫か」と声を荒げた。
「平気、これだけよ」
華蓮が苦笑して、俺の前に右足を差し出す。血が滲んだりはしていないものの、しばらくの間はヒリヒリしそうな類の擦り傷が、華蓮の右膝に痛々しく生じていた。
「……雪乃ちゃんが傷を負った時は、もっと痛かったんでしょうね」
「そんなに気にするなよ。嫌がる雪乃から、むりやり服を脱がせて見たわけじゃないだろ?」
「……それはそうだけど、あたしがいま気にしてるのは、そっちのことだけじゃないのよ」
意外な一言である。
「じゃあ、一体何を気にしてるんだ?」
華蓮は溜息をつくと、ゆっくりと答えた。
「……ほら、あたし、雪乃ちゃんに、物凄く無神経なこと言っちゃったじゃない。それが、すごく心苦しくてね」
「……泳がないのって聞いたことか?」
俺の率直な物言いに、華蓮は黙って首肯した。
「傷跡のことを知ってて言ったわけじゃないだろ。雪乃だって、絶対、気にしてないはずだぞ」
「――でも!」
それ以上の問答を拒むかのように、華蓮が視線を逸らす。
俺は逸らさなかった。
「……華蓮、そうやって余計な気を使われるのが、雪乃にとっては一番嫌なことだと思うぞ。いつも通りの華蓮でいればいいんだ。そうしたら雪乃も、いつも通りの雪乃でいてくれるさ」
「でもそれじゃ、あたしの気が済まないのよ」
小声でためらいつつ答えた華蓮に、俺は苦笑を向けた。
「――とにかく、俺たちも戻ろう。向こうもこっちのこと、心配してるだろうし」
俺は手を引いて華蓮を立たせると、真っ直ぐに瞳を見つめた。
ややあって華蓮が、若干表情を緩めて口を開く。
「……そうね。突然飛び出しちゃったんだもの、向こうも心配してるかもしれないわね」
二人して海岸線を並び歩く道中、あとは当人たちの問題だよな、と、俺は胸中で溜息をついた。
「雪乃ちゃん、まきえちゃん、ちょっといい?」
白地に金の縁取りがされた瀟洒なドアを、華蓮が何回かノックする。
着替えを終えてホテルに戻ってくるなり、すぐのことだ。華蓮は何度も呼びかけを繰り返していたが、二人の部屋からは何のリアクションもないようだった。
「……いないのかしら?」
と、華蓮が独りごちるようにして呟いたその時である。
ドタバタといった騒々しい気配がドア向こうより聞こえてきて、荒々しく鍵が外された。
「ひ、秀晃さん、華蓮さん、大変です!」
「おい、一体何があったんだ?」
通路に飛びだしてきたまきえにそう問いかけると、彼女は目まぐるしく表情を変えながら口を開いた。
「雪乃がいないんです!」
「え?」
訝しげに眉を寄せた俺に向けて、まきえが続けざまに言う。
「ですから、あたしが椅子に座ってうたた寝している間に、雪乃が部屋からいなくなっちゃったんですよ!」
やけっぱちに紡がれたまきえの言葉を頭の中で反芻し終えると、俺はおもむろに叫んだ。
「――何だって」
まきえの横を通って部屋に飛び込み、自らの目でそれを確認する。
確かに雪乃の姿はどこにもなかった。バスルームを確認していた華蓮が、やはり首を振るう。
テーブルに置いてあった書置きを見つけたのは、その直後だった。
『まきちゃんへ。ちょっと買い物に行って来ます。なるべく早く戻ってくるから、心配しないでね』
文面を確認し終えるなり、俺は腰砕けになった。
「ど、どうしたんですか、秀晃さん?」
「ええい、これくらい気付け!」
と、ちゃぶ台があったらひっくり返しそうな心境でもって、俺は声を荒げた。
書置きを読んだまきえの口から、乾いた笑い声がこぼれる。
「うわー、気付きませんでした。こんなものがあったんですか」
「いいから、何か行き先に、心当たりはないのか?」
「いえ、これといって特には…………」
と、まきえが小首を傾げる。
俺は溜息をつくと、きびすを返してドアの方へと向かった。
「秀晃くん?」
「いや、一応ホテルの中、ぐるっと見て回ってくるよ。入れ違いになるといけないから、二人はここで待っててくれ」
「え、だったら――」
「すぐに帰ってくるから」
渋る華蓮にそう言い残すと、俺は部屋を出た。そのまま真っ直ぐにエレベーターへと乗り込んで、一階のボタンを押す。
行程がノンストップだったことにささいな満足感を覚えつつ一階の床を踏むと、俺はフロントに向かった。
雪乃が外出しているのかどうか、確認しておこうと思ったのである。
だがそちらに目をやると同時に、俺は脱力した。
「あ、秀晃さん、帰ってたんですね」
雪乃が軽い喜色を瞳の端に浮かべて、受付の女性と何やら会話をしていたからである。
「雪乃!」
「え、あ……はい、何でしょうか?」
受付の女性に頭を下げ、雪乃がそそくさと近寄ってくる。何やら大きめの紙袋を大切そうに抱えていることも含めて、それはまぎれもなく、いつも通りの雪乃だった。
「いや、その……どこ行ってたんだ? 心配したぞ」
「あれ? 買い物に行くって書置きを残しておいたんですけど……まきちゃんには会ってないんですか?」
「いや、それは知ってる。ただ雪乃一人にしておくのが、ちょっと心配になったもんで……」
迷った末にそう言うと、雪乃はむっと膨れっ面になった。
「秀晃さん、わたし子供じゃないんですよ」
「わ、分かった。それは悪かった。謝る、謝るから――」
両手を合わせて頭を下げながら、俺は言葉を紡いだ。
「――だから、華蓮のことも、許してやってくれないか」
「え……?」
「華蓮のやつ、雪乃の事情も知らないで無神経なことを言ったって、自分を責め続けてるんだ。だから――」
「ひ、秀晃さん! もういいです。顔を上げてください」
と、雪乃が慌てて俺の言葉に割り込んだ。
「……秀晃さん、実は謝りたいのは私もなんです。寝起きだったから、すごく動揺しちゃって……」
「そ、そうなのか?」
「はい。華蓮さんには、悪いことしちゃいました……」
雪乃は悄然と息をついていたが、ややあって、うつむき気味だった顔を不意に上げた。
「あの、華蓮さんは上にいるんですよね?」
「ああ。買い物が済んだんだったら、早く会ってやってくれないか?」
そう言って、エレベーターの方へときびすを返したその瞬間、迅速に伸びた雪乃の手が、俺の袖をつかんだ。
「ちょ、ちょっと待ってください!」
と、何やら緊張した表情になって、雪乃が口を開く。
「……ええと、それでしたら、華蓮さんに会う前にちょっとしたお願いがあるんですけど、構わないですか?」
「いいけど、一体何なんだ?」
小首をかしげてそう尋ねると、雪乃は目を逸らした。
「――と、とにかく、一緒に来てください」
「お、おい。そんなに強く引かなくても、ついて行くって」
苦笑まじりにそう言ったが、雪乃は目はおろか顔まで逸らしたままで、一歩もしりぞこうとしない。
その頬が赤く染まっていたことに気付いたのは、雪乃がどこへ行こうとしているのか、何となく見当がついた時のことだった。
「なあ、雪乃。もしかして、屋内プールに行くつもりか?」
俺は壁にかけられた表記を見ると、意を決して問いかけた。
おもむろに足を止めた雪乃が、少し先にある更衣室と書かれたドアを見ながら、ゆっくりと口を開く。
「……秀晃さん。私……くたくたになるまで遊ぶみんなを見ていて、ちょっとだけ、自分が悔しかったんです。どうして私は、あの輪の中に入って行けないんだろうなあって、そう思って」
「……いや、誰だってそう思うよ。それが普通だ」
「はい。だから、いつかみたいにちょっとだけ、勇気を出してみることにしたんです」
そう言って振り返ると、雪乃は赤らんだ顔を紙袋で半分隠しながら、おずおずと口を開いた。
「これから水着に着替えてきます。いろんな意味で恥ずかしいんですけど、正直な感想を聞かせてくれませんか?」
「え?」
「心の準備がしたいんです。その、華蓮さんに見せる前に――」
「……分かった、いいよ」
そう答えると、雪乃は頬を赤く染めたまま、逃げるようにして更衣室の中へと駆け込んだ。
微苦笑を浮かべながらプールサイドへと入り、待つこと十数分。
プールを利用している他の客が一人もいないことに感謝しながら――更に十数分待った。
「……遅い」
ひょうたん型のプールの水面を見ながら、そう独りごちる。
女の子の着替えに時間がかかることは承知してたんだけど、これじゃ上にいる華蓮たち、相当心配してるんではないだろうか?
「あの、お待たせしました」
「お、雪乃か――」
当たり前のことを言いながら振り向いた俺は、そのままの体勢で、ピシィと硬直してしまった。
水着の露出度が、特に高かったと言うわけではない。
白地に薄紫色の朝顔を咲かせたその水着は、デザイン的にはごく普通のワンピースだった。
「あ、あの……どう、ですか……?」
雪乃が恥ずかしそうに尋ねてくる。雪乃の魅力的なラインに見とれていた俺は、半分くらい我に返ると、おもむろに呟いた。
「……可憐だ……」
ごげん――と、壁を殴りつけるような音が聞こえたその時、雪乃は耳の先まで真っ赤になって、指をもじもじとさせていた。
「あの……嬉しいんですけど……そうじゃなくて、その……」
「そ、そうか。そうだよな」
俺はわずかに尻ごみすると、思いきって口を開いた。
「あのな、雪乃。こんな風に言うと誤魔化してるみたいに聞こえるかもしれないけど……。俺にはその傷跡、全く気にならなかったぞ」
「えっ?」
「いや、全くって言ったら、言い過ぎかもしれないけど……でも、これだけは言える」
「な、何です?」
ごくりと生唾を飲みこんだ雪乃に、俺は微笑みかけた。
「その水着、すごく似合ってるぞ。傷跡なんて、あってもなくても関係ないくらいに」
「――秀晃さん!」
雪乃は大きく息を飲むと、勢いよく胸元へと飛び込んできた。その瞳からは真珠のような大粒の涙が、ぼろぼろとこぼれ始めている。
「おいおい、何も泣くことはないだろ?」
俺はそう言って、雪乃の頭を優しく撫でた。
「……泣いてませんよ」
グジグジと鼻をすすりながら、雪乃が強がる。
「これは笑ってるんです。嬉しくて笑ってるんですよ、本当に」
「そうか。じゃあ、そう言うことにしとくか」
「――はい、お願いします」
涙に濡れた顔では喜色満面とは言いがたいけれど、それでも雪乃は、心の底からの笑顔を俺に向けてくれた。
黒曜石の煌きを放つ瞳は、まるで魔力を帯びているようにさえ思える。
その魔法が俺の顔を限りなく雪乃の方へと近づけさせて、その瞳の端に映り込んでいた二つの人影を、俺に見せつけた。
「――――」
慌てて雪乃を引き剥がすも、それで時間が舞い戻るわけではない。
俺が振り向くのと同時、悟られたと気付いた華蓮とまきえが、入り口の影からひょっこりと姿を現した。
「や……やだ、まきちゃん? それに――華蓮さんも」
動揺した雪乃があたふたと手を振るう。
俺も混乱した頭で、矢継ぎ早に叫んだ。
「――な、何で二人とも、こんなところにいるんだよ」
「……心外ですねえ、あたしたちは雪乃の心配をしちゃあいけないんですか?」
「い、いや、そう言うことじゃなくてだな……」
「……フロントの人に外出の有無を尋ねたら、『屋内プールへの行き方を尋ねてきた女の子と一緒でしたよ』って、教えてくれたのよ」
と、何やら幽鬼めいた気配をまとわりつかせて、華蓮がこちらへと近寄ってくる。
「あの、華蓮さんっ――」
涙をぬぐった雪乃が俺と華蓮の間に、慌てて立ちはだかる。
「雪乃ちゃん……買い物ってひょっとして、その水着なの?」
華蓮は幽鬼めいた気配をコロリと落とすと、微苦笑を浮かべて雪乃に問いかけた。予想外の質問だったからなのか、雪乃が泡食った表情になって、首を振るう。
「違うの? でもすごく似合ってるわよ」
「ほ、ほんとですか?」
「もちろんよ」
と、華蓮が楽しそうに拳を固める。
「だからね、こんな傷跡くらいでとやかく言う人がいたら、思いっきりぶっ飛ばしてやりなさい。……そうね、こんな風に」
言い終えた瞬間、華蓮は風になっていた。
俺はと言えば、台風に飛ばされる哀れな屋根瓦と化して、プールへと落下していた。
ざっぷーんと豪快な水柱が立ち、全身を包み込んだ水の中で、俺は慌てて手足をばたつかせた。
溺れる者は藁さえつかむとよく言われるが、もがき続ける俺の周りには、藁代わりになるものさえなかったのだ。
「秀晃さん!」
ただ一人水着だった雪乃が、水面に勢いよく飛びこむ。
ややあって浮き沈みしていた頭部を完全に浮上させると、俺は一息をついた。
水に濡れた衣服が物凄く重い。かなりの体力を消耗してプールサイドに辿りつくと、まきえの意地の悪い微笑みが俺を出迎えた。
「秀晃さん、災難だったですねえ」
「やかましい。人命救助にも来なかったくせに生意気な口を叩くな」
「いやー、だってあたし、秀晃さんのこと信じてますもん」
「便利な言葉だな、おい?」
半眼になって睨めつけるも、まきえはどこ吹く風である。
「それに、こんなのもう日常じゃないですか。ねえ、華蓮さんも、そう思いません?」
「ノーコメントよ!」
華蓮はそれだけ言うと、つん、と、そっぽを向いた。
「……秀晃さん。それで、雪乃はどうしたんですか?」
「え? 一体何のことだ?」
そう言うと、まきえの表情は微妙に強張った。
「……あの、雪乃に助けてもらったんじゃないんですか?」
「いや、落ちついたら、床に足がついたから――」
そう言えば水面下で見た景色の中に、雪乃がプールに飛び込む光景があったような気がする。
「……秀晃さん、あたし気付いたんですけど」
「……な、何だ?」
俺が息をひそめて尋ね返すと、まきえは深刻な表情で呟いた。
「……その、雪乃ってひょっとして、もう十年近く泳いでないんじゃないでしょうか?」
「……泳ぎ方を忘れても、おかしくない年月よね、それって――」
華蓮は神妙そうな表情で、まきえの意見を補足した。
沈黙のとばりが降りて、三者三様の視線が水面へと向かう。
目を凝らすと、雪乃のつややかな黒髪が、さながら海草のごとくプールの底をたゆたっていた。
「どわああああああッ! お、溺れてるッ」
俺は血相を変えて叫ぶなり、再びプールへと飛び込んだ。
ちなみに雪乃の買い物が『三分で覚える水泳教室』という本だったことは――、後日の笑い話である。
(彼女が水着に着替えたら……? 了)
作者あとがき……
えー、当初はもう少し笑いに走るつもりだったんですが……どこをどう間違えたかこうなりました(笑)。何つーか、オチを書きたいがためだけに必死で場面を繋ぎ合わせたようなシロモノです。反省してます。精進します。
……あとそれと、舞台が沖縄だからといってわざわざ資料を当たったりしませんでしたので、沖縄に詳しい人、あまりツッコミを入れないでください(笑)。
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