それは雪降る佐倉のように

作:水上隆蘆









      §  §       

 一月一日。元旦。新年。初日の出。
 人それぞれの様々な言い方がある、古い年が暮れて……新たな年が明けて……といった出来事が目白押しの、とにかくもそんなお目出度い日。緑王町を一望に見下ろせる高台のてっぺんで、俺こと仲原秀晃(二十歳)は、一人ベンチに腰掛けながら震えていた。
「……寒いな」
 ……登場していきなりの情けないセリフだな、俺。なんでこんな言葉を口にしなければならないんだろう。
 溜息を深々とつく。
 白い息が、自分に対する呆れと共に吐き出される。

 今、緑王町には雪が降っていた。
 空は一面鈍い灰色で覆われ、そこから白い粉が舞い降り続けている。
 今朝やっていたTVが伝えるところによると、今日はここ数ヶ月で一番の冷え込みだそうで、一日中氷点下が続くのだそうだ。
 さらに言うなら、こういう天気は例年にない珍しいものらしく、番組の終わりにはニュースキャスターが『新年早々初雪が見れて縁起がいいですね』などと無邪気そうな顔でのたまっていた。
「まったく。今は暦の上だと新”春”じゃないのか?」
 思わず、どうしようもなく冷たい外気に対して悪態をついてしまう。
 一月一日。元旦。新年。初日の出。
 確かに、雪が降ってもおかしくはない日だ。
 だからといって本当に降るか?
 そりゃ俺だって正月早々に雪を見れるなんて趣深いことと思う。
 しかし、それも大雪となれば話は別だ。
 『新年明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします』……とくれば、普通は神社に初詣というのが普通の人間の取るべき行動だろう。と言うことは、必然的に外出と言うことになる。
 そう。新春早々、俺がなぜこんな寒空の下にいるかというと、──いろいろあって今現在恋人の──雪乃と初詣に行くため待ち合わせをしてるためなのだった。
 俺はちらりと時計を見る。ただいまの時刻は一〇時三四分。
「雪乃に限って遅れるなんて事、あまり考えられないんだが……」
 つぶやきと共に吐き出される息は相変わらず白い。体内の熱が外へと逃げ出していく証拠だ。水も凍りつく気温がひどく恨めしい。
「待ち合わせの時間、間違えてるのかな……」
 三〇分も遅れていることに不安が芽生える。いやいや、雪乃に限ってそんなことはないだろう。
 いつもはこんな事ないんだけどな……。
「しかし、今日は寒い……」
 まったくもって外気は肌を刺すような冷たさだ。
 一応対策として、家を出る時に手持ちの中で最も厚いコートとセーターを着込んで来たはずなのだが、悲しいことにちっとも暖かくなかった。やっぱり、もっと重装備で来た方が良かったのかもしれない。さすが、『今日の降水確率は昼夜共に80%、強風注意報も発令中』は伊達ではない。
 ピューッと風が吹き抜けた。
「さ、寒ぶっ」
 突然やって来た寒気に反応し、体が身震いを起こす。
 しかたなく体を丸めて風にしばらく耐える。数秒ほどで唐突な風は収まってくれた。ほっとした俺は体の震えを落ち着かせようとコートの襟を立てなおした。吹きつける寒風対策だ。
「このままじゃ、風邪引いちまうぞ……」
 首を襟の中に埋もれさせながら力無くつぶやくものの、やっぱり寒いままだ。残念ながら、これも寒さへの防御策としてはあまり意味がないらしい。
「……このままじゃ、まずいよなあ」
 仕方なく俺は、見飽きた周囲に視線をやって気分を紛らわそうとする。

 高台は、白銀色の雪化粧がほどこされている。
 広場に植えられた木々にはうっすらと淡雪が積もり、中央にある噴水は水晶のように輝く氷柱で飾られていた。
 遠方に見える山々もまた白く染まり、眼下に広がる街はイルミネーションを発しながらきらめいている。
 そして、雪は今もゆっくりと降り続いていた。
 見上げた空は暗く灰色に染まっているが、それは舞い踊る白い妖精をより一層引き立てるための心憎い小粋な背景に見える。
 乱暴に言ってしまうなら、それは美しい光景だった。これを表現する語彙が自分にないのが残念に思うほど魅力的な姿である。こういう世界をこそ幻想的というのだろうか。
「……でも、寒いんだよなぁ」
 コートに首を埋めたままで俺は一人呟いた。
 そうなのだ。雅な雰囲気なんてものに浸れるのは暖かい家の中で眺める時だけなのだ。外で、しかもこんな気温では雪景色なんか見て楽しむ余裕なんかあるはずが無い。
 そりゃ、雪を見るのは俺も嫌いじゃない。というか、好きな方だと思う。一面に広がる銀世界を目にするのはとても心が躍るものだ。子供らしい感傷といわれるけれども、この感情を簡単に否定できる人間はそういないだろう。
「問題は、何事にも程度ってものがあるだけだよな……」
 別に雪国に住んでるわけじゃないんだから、適当に降って、適当に止んで欲しいのだ。交通機関が麻痺しない程度に。
「せめて使い捨てカイロでも持ってくればよかったな……」
 俺は再び溜息をついた。水分を多く含んだ息は寒暖差によって真っ白い霧となり周囲に拡散する。
 目前に発生した人為的な雲が消え去る様子を最後まで眺めた俺は再び時計を見た。ただいまの時刻は一〇時三七分だった。
 俺は寒さで朦朧となりつつある頭で、昨夜のチャットでの打ち合わせを思い出そうとした。


      §  §       

──回想──
■マスカレード・二人チャット 23:22:05 2001/ 12/31

探求者:こんばんわ、雪乃。
菩提樹:こんばんわです。秀晃さん。
探求者:もうすっかり年の瀬だな。
菩提樹:そうですね。今日は大晦日ですから。
探求者:雪乃の所は忙しかったのか?
菩提樹:それはやっぱり大晦日ですから。秀晃さんはどうだったんですか?
探求者:そうだなあ。昼間は部屋の片付けをしてたな。今はそばを鍋で茹でてるところだ。
菩提樹:わ、いいですね。
探求者:雪乃も今日は年越しそばを食べるんだろ?
菩提樹:ええ。それはそうなんですけど。
菩提樹:他にもいろいろとしないといけないことが多いですから。
探求者:そうなのか?
菩提樹:はい。だから、あんまり長くはいられないんです。
探求者:じゃあさっさと本題に入った方がいいな。
菩提樹:なんでしょう?
探求者:雪乃は明日暇か?
菩提樹:もしかしてお参りですか?
探求者:ああ、せっかくだし初詣にいこうと思ってね。
菩提樹:私が一緒に行っていいんですか?
探求者:もちろん。というか、そのために声を掛けたんだが。
菩提樹:本当に私が行っていいのかなって思って。
探求者:そんなこと思わなくていいのに。
菩提樹:すいません。
探求者:謝らなくていいって。
菩提樹:すいません。
探求者:ほら。
菩提樹:あ…。
探求者:で、どう?
菩提樹:そうですね…。お昼前なら大丈夫です。
探求者:そうか。なら10時頃でどうかな? 待ち合わせはいつもの高台で。
菩提樹:わかりました。じゃあ、また明日。
探求者:ああ、お休み。
菩提樹:おやすみなさい。


      §  §       

──回想終わり──
■いつもの高台


「……間違いないよな。確かに10時にここで待ち合わせって言ってるよな」
 俺は灰色の空を見上げながら呟いた。
 手袋を履いたままポケットに突っ込んでいた手を引っ張り出し、寒さですっかりかじかんだ指先に息を吹きかける。
 手袋越しなのであまり意味はないが、それでも何もしないよりはましだった。第一、手袋を脱いでから息を吹きかけるなど寒くて出来るはずがない。
 再びピューッと風が吹いた。
「さ、寒ぶっ」
 すでに幾度目かになっている反射的動作──体を丸める事──を行って、少しでも体温が外部に逃げるのを防ごうとする。
 そのままの姿で忍びがたきを忍んでいると、一〇秒ほどで風も何とか収まってくれた。もっとも、これも一時的なんだろうが。
 諦めに近い感情で俺は空を見上げた。雪は今もしつこく降り続けている。
 雪を見るのもいい加減嫌になっていた。
 こうしてベンチに座っていると否応なく雪がコートに積もっていく。間を置いては適当に払いのけているものの、そろそろ両肩のあたりなんか溶けた雪が染みこみ始めてきている。
 にもかかわらず、待ち人、未だ来たらず。はっきり言ってもの悲しい。
「ちょっと遅すぎないかなぁ……」
 五分くらいの遅れでいちいち文句など言うつもりはない。俺はそこまで心は狭くないつもりだ。何より、あいてが女の子──さらに言うなら雪乃である──となればなおさらだ。
 ……が、こうして雪の中、三〇分以上も一人でぼーっと待たされていると別のことを思ってしまう。
 あるいは、我慢も時と場合に応じてなのではないのだろうか? と。
「というか、待ち合わせ場所、絶対間違ったよな……」
 雪まみれの自分の姿を見おろし、今更にして後悔する。
「やっぱり、高台じゃなくて、公園にすればよかったな……」
 頭の中に『後の祭り』という言葉が浮かんでは消えた。しかし……、
「いくらなんでもこの天気はどうだよ……」
 お天道様も非情すぎるではないか。
 空からは相変わらず雪が降り続ける。
 溜息と共に俺は再度時計を見た。短針は以前見たときと比べて六〇分の二周ほど動いていた。つまり、現在時刻は一〇時三九分。全然時間は進んでいない。
「何か、あったのかな……」
 俺は再び溜息をついて、ベンチに体を埋めなおした。


 そんでもって、そのまま一時間が過ぎた。
 現在時刻一一時三九分三二秒。
 体の震えは情けないという線を越えて、もはや生命の危険を感じるところまで到達しようとしていた。
「こ、このままいたら、きっと死んじまうな……」
 以前、雪の降る中、従姉妹の女の子に三時間もほったらかしにされて死にかかったという少年の話を聞いた事があるが、それは絶対嘘に違いないと俺は思った。
 というか、そんな状況に置かれたら、死ぬだろ、普通は。
 客観的に考えて三時間とは、今から数えてもう一時間半余分に待ち続けると言うことだ。
 もし
『今からもう一時間半待っててね♪』
なんて事になったら、たとえ月の輪熊でも凍死するだろう。少なくとも、俺は絶対確実言語道断で死んでしまう。
「ひ〜であ〜きさんっ」
「うぉっ!?」
 唐突に視界が真っ黒になった。
 視線を遮ったのは手だった。温かかくて柔らかい手が俺の目を覆っている。
 そして、耳には聞き間違えることなどない声が響く。
 一呼吸置き、心を落ち着ける。
「……こういうのわ、まきえの専売特許とばかり、思っていだんだけどな」
「あの……、秀晃さんなんだかとっても震えてますけど?」
「そりゃ、誰かさんに一時間半も待たされたからな……」
 そう言って俺はゆっくりと振り向いた。
 そこには雪乃がいた。
 というか、着物姿の雪乃がいた。
 鮮やかな藍色の絹布に緑竹の文様が施されている着物と、長く延びる黒艶の髪と、優しげな瞳と、小さな唇と、たおやかな手と、その手に握られた缶コーヒーと、俺の目に映るその他すべてで構成された雪乃がそこに立っていた。
「すいません。着物を着るのに手間取ってしまって……」
 そう言って恥ずかしそうに雪乃が微笑む。
「……」
「……秀晃さん?」
「…………」
「秀晃さん……どうしました?」
「……あ、いや」
 俺はほうっとしながら答えた。
「きれいだな……」
「え?!」
 雪乃の頬といい、耳といい、顔の全てが真っ赤に染まる。
「え、えいっ」
 ぎゅりっ。
「う゛、うあっちゃあ?!!?!」
 雪乃の手に握られていたホットの缶コーヒーが思い切り俺の頬に押しつけられた。
 芯まで冷え切っていた体にはあまりに強烈な一撃に思わずのたうち回る。
「だ、だいじょうぶ、ですか?」
 俺の大仰な反応におろおろとしながら雪乃が尋ねてきた。
「全然大丈夫じゃないです……」
 俺は缶コーヒーで軽いやけどを負わされた頬を何度もさすりながら答える。こうなると、冷え切った指先がかえって気持ちよい。
「……これからは、この攻撃を『コーヒーブレイク』とよぼう(ぼそ)」
 その言葉に雪乃は引きつった笑みを浮かべた。
「あ、そ、その……とりあえず、遅れたお詫び、です」
 ごまかしも入っているのだろう。そう言って雪乃がおずおずと缶コーヒー(憎き敵)を差し出してきた。
「あ、ありがと……」
 俺は差し出されたそれを注意深く受け取った。
「あ、あはっ」
 笑っているつもりの雪乃の表情はあいかわらず硬いままだった。……まあ、しかたないけど。
「はぁ〜。あったかい──」
 缶を握ると冷え切った指先に熱が伝わってきた。
 そのまますぐにプルトップを開けて黒い液体を口の中に流し込む。
「──ぷはぁ。……ありがとう、生き返った」
 体内に入ってきた熱いコーヒーで一息ついた俺は、あらためて雪乃を見やった。
 雪乃は、晴れ着によくある“艶やか”なものでなく、むしろ“粋な”という表現が似合う着物を身に纏っていた。
 藍色の緞子には深い光沢があり、布地を彩る控えめな竹林模様もけして地味でなくセンスよく配されている。それは、素人目にも高いんだろうなと判るほどの一品だった。
 そんでもって、これを着ているのは雪乃であった。雪乃の笑顔で、88・57・87のプロポーションで、長く伸びた黒髪で、粋な着物──
 そんな姿を見せられると、着物は誰にでも似合う……じゃなくて、やっぱり日本人は着物が一番……でもなくて、これはもはや……、
「犯罪だろ……(ぼそっ)」
「え?」
「あ、いや、気にしない気にしない」
 俺はあわてて手を振りごまかした。
「どこか、おかしいですか?」
 そう言ってきょろきょろと自分の晴れ着姿を見直す雪乃。
 その拍子に、艶のある髪がさらりと宙を舞う。
「い、いや、全然おかしくなんてないって」
 思わず俺は挙動不審なほどあたふたしてしまう。
「そうですか?」
 そんな俺の様子に不思議そうな顔で雪乃が向き直る。
 自然と目が合った。
 無邪気な瞳にどきりとして思わず視線を逸らしてしまう。
 ものすごく不自然きわまりない行いに沈黙が広がってしまう。
「あの、……やっぱり似合いませんよね」
 うつむいた雪乃は申し訳なさそうに言った。
「そんなことないって! とてもよく似合ってるって!」
 俺はおおあわてで否定した。
「本当ですか?」
 不安そうな瞳で雪乃は聞き返してくる。
「俺は、嘘は言わない」
 出来る限り落ち着いて、俺は宣言する。
「お世辞でも嬉しいです」
「だから、お世辞じゃないって……」
 絶対に勘違いしてると思ったが、今更『雪乃に見とれて別の世界に行ってました』なんて説明するのは恥ずかしかった。こんな時はさっさと話題を変えるに限る。
「ところで、雪乃こんな着物持っていたんだな」
 ……思いっきり不自然だな。
 しかし雪乃はそんな俺の内心に関係なく、首を横に振って否定した。
「……この着物、お姉ちゃんが貸してくれたんです」
「智津子さんが?」
「はい」
 そう言って雪乃は恥ずかしそうに頷いた。
 言われてみると、確かにこのセンスは雪乃と言うよりも智津子さんのものかもしれない。雪乃が着るにしてちょっと大人びすぎている。
「う〜ん……」
 だからといって、それが雪乃に似合っていないなんてことはない。
 というか、むしろそのギャップが俺的に直撃(クリティカルヒット)しすぎだった。
「そんなに見られるのは恥ずかしいです」
 頬を染めた雪乃は自分の着物姿を両手で隠す。
「あ、悪い」
 どうやらじろじろ見過ぎていたらしい。照れ隠しに俺は頬を掻いて誤魔化した。
「ほらっ、遅くなっちゃいますから行きましょう」
 そう言って雪乃はそそくさと歩きだしてしまった。
「あ、ちょっと待ってくれ」
 すっかり冷めてしまった缶コーヒーを飲み干すと、俺はあわてて雪乃を追いかけた。


      §  §       


 高台から徒歩で一五分、俺と雪乃は町の中心部から離れた場所に立てられている神社に到着した。
 神社の名前は橘神社という。緑王町にある唯一の神社だ。
 といっても、大きい社を持つ本格的な物ではなく、こぢんまりした鳥居と、小さな本殿と、僅かばかりの広さを持つ社務所で構成されたどこにでもあるようなごく普通の神社である。
 元々は商売繁盛を祈願するために建てられたそうで、その後時代が経つに連れて「病気が治る」とか「五穀豊穣」といったどこにでもある御利益が追加されたらしい。
 そう言った次第で、一応そこそこの伝統のある、霊験あらたかな神社なのだそうだ。

「お参りなんて、久しぶりです」
 入り口に建てられた鳥居を感慨深げに見上げながら雪乃が言った。独特の形に組み上げられた赤い柱をじっと見つめる。
 俺は片時も目を逸らそうとしない雪乃の横顔を黙って見ていた。
 “久しぶり”という言葉に、一体どのくらいの時間と思いが込められているのだろうか。全部ではないけれども、ほんの一部だけれども、俺はその理由を知っている。
 俺は、そっと雪乃の肩を引き寄せた。
「じゃあ、沢山お願いをしないとな」
 そう言って雪乃に笑いかける。
 雪乃は一瞬びっくりして、恥ずかしそうにうつむいて、でも次には俺の顔に向き直って、笑った。
「はいっ」
 満面の笑顔だった。
「じゃ、いこうか」
 俺は頷いて、鳥居の奥を指さし歩き出した。

 大した数もない石段を雪乃と肩を並べて登る。
 お参りに来てることもあり、その間の話は自然と橘神社についてになった。
「……このお社は七福神で有名な弁天様を奉っているんです」
「えらくメジャーな神様奉ってるんだな、ここ」
 雪乃の話に俺はいちいち頷く。
「あれ? 秀晃さんは知らなかったんですか?」
「何せ、ここに来るのは一〇年ぶりだからな」
 俺は石段の先を見上げて言った。
「すっかり忘れちゃってたよ。それに、引っ越し直してからもここには来る機会がなかったしな」
 この町に戻ってきてからの生活を思い出す。
「色んな事が有って忙しかったし、な」
 そう言って俺は雪乃に笑いかけた。
「……はい」
 雪乃は恥ずかしそうに頬を染めた。
 この町に戻って来たあの日。
 雪乃と出会ったあの日。
 雪乃を外へと連れ出したあの日。
 そして、雪乃が決意をしたあの日。
 ……本当にいろんなことがあったよな。
 雪乃との思い出を感慨深げに思い出す。
「……で、弁天様ってなんの神様なの?」
「芸術の神様なんですよ」
 俺の質問に対し、微笑みながら雪乃は答える。
「それは初耳だな……」
「他に商売の神様でもありますけど……メインは芸術なんです」
「ふーん」
 ホント、雪乃って色んな事をよく知っているよな……。

 階段を登りきった俺達は、神社の境内に入った。
 時節柄だろう、こんな天気にも関わらず社の中には結構な数の参拝客が来ていた。
 その内訳は、子供連れの家族やおじいさんおばあさんといった年輩の人がほとんどだ。たまに若い連中もいるが、そういった連中は男ばかりとか女の子ばかりといったグループで、どうやらカップルで来てる人間はいないらしい。
 結果、勢い俺達は目立つことになった。中にはちらちらとこっちを盗み見る男どももいる。それはそうだろう。外見というファクターだけで考えたとしても、雪乃ほどかわいい娘なんて世の中にそうそういるはずがないのだ。ふっふっふ、うらやましいだろう。
「どうしました?」
 俺の表情が気になったのだろう。不思議そうな顔で雪乃が尋ねてきた。
「い〜や、別に」
 社の奥へと通じる石畳を得意満面の表情で歩きながら俺は答える。
「秀晃さん、なんでか笑ってますよ?」
「うん。なんでだろうな」
 そう言って俺は雪乃の疑問を受け流した。
「何か理由があるんですか?」
 雪乃は疑惑の表情を浮かべたままだ。
「お、もうちょっとで賽銭箱だな」
「秀晃さん、話を逸らしてますよ」
「そうか?」
「そうですよ」
「気にしない気にしない」
「もう……」
 雪乃は眉間にわずかなしわ寄せた。そんな表情もまた愛らしい。
「……あの、秀晃さん?」
「ん?」
「あ、その……。ひょっとして、高台で待たせたこと怒っています?」
「怒っていたら今みたいににこにことはしてないだろ?」
「それは、そうですけど……」
 俺の返事聞いてはみたものの、相変わらず雪乃の表情は納得をしていないようだった。
「本当に大したことじゃないよ」
「ならいいんですけど……」
 わずかに時間を置いて雪乃は言葉を続ける。
「でも、言いたいことがあるなら何でも言ってくださいね?」
 そう言って雪乃は胸元に手をやりながら上目使いで俺を見上げる。
 う〜ん。かわいいぞ、雪乃。
「わかった。約束する」
 俺は力強く頷いた。
「お、おみくじがあるな。やっていこうか?」
「あ、はいっ」
 向日葵のような笑顔を雪乃が浮かべた。
「よし。じゃ、早速行ってみよう」
 俺達は境内の中で道草を食うために社務所へと足を向けた。

 石畳の終末。少しばかりの寄り道の後、俺達は神社の中心──拝殿に到着した。
 見上げた正殿は敷地に比してわりあいに大きい建物で、小さな社にしてはなかなかに立派なシロモノだ。厳つい瓦で葺かれた総木造の建物は一瞥しただけで相当な年季が入っている事が感じられる。その上、降り止まない雪で白く染まり、より一層風格を増していた。
「結構居るなぁ」
「そうですね」
 賽銭箱の前には境内よりも多くの参拝客で人だかりが出来ていた。こんな天気なのに大変なことだ。
 早速二人してその列の最後に並ぶ。
 順番を待っている間に、俺は雪乃に尋ねてみた。
「お賽銭には何がいいか雪乃は知ってるか?」
「五円玉ですよね」
「そうそう」
 雪乃の答えに俺は相づちを打つ。
「五って数字は縁起がいいからな」
「ご縁がありますように、って意味ですね」
「みんながみんな気にしているわけじゃないけどな」
 俺は賽銭箱の方を見やりながら言った。
 神社にしてみれば縁起にこだわって五円玉を一〇枚も二〇枚も入れられるより、一万円札を入れてくれる人の方により多くの御利益をあげたいというのが正直なところだろう。
 そうこうしていると、だんだんと自分の順番が近づいてくる。
「お賽銭、先に出しておきませんか?」
「そうだな」
 雪乃の提案に頷く。賽銭を出すのに手間取って後の人に迷惑をかけるのも気が引けるしな。
「えーと……」
 俺はポケットから財布をとりだし小銭入れをのぞき込んだ。
「──おや?」
 小銭入れには一円玉と五〇〇円玉しか入ってなかった。
「確かに一〇〇円玉がごろごろしてたと思ったんだけど……」
「どうしました?」
「いや、大したことじゃないから」
 ……もしかしてさっきのおみくじで小銭を使い切ったのか、俺?
 おもむろにおみくじを引いた数を指折り数え直してみる。一回、二回、三回……。どうやらそうらしい。
「……四回も引くんじゃなかったな」
 恋愛運がぱっとしないからとしつこく引いたのがここで響いてくるとは……。
「しかたないか」
 諦めて五〇〇円玉を掴む。考えてみればこの神社へお参りにやってくるのは一〇年ぶりだ。一〇回分を一度に出すと思えば大した額ではない。いや、そう思うことにする。
「さらば、俺の時給三〇分」
「はい?」
「あ、気にしない気にしない」
 そう言って雪乃の追求を誤魔化す。なんだかこんなのばかりだな、俺。
「あ、次ですよ、秀晃さん」
「おう」
 いつの間にか俺達に順番が回ってきたようだ。
 俺は握っていた五〇〇円硬貨に思い切り念を込めて賽銭箱へと放り込んだ。
 放物線を描いて五〇〇円硬貨が宙を舞う。
 ちゃりん、と乾いた音が響いて五〇〇円玉が賽銭箱の中に消えた。
 次に、からんからんからんと鈴を鳴らし、ぱんぱんっと柏手を打つ。
「……よしっ」
 願い事を終えた俺は、雪乃の方を振り返った。
 どうやら俺が終わるのを待っていたらしい。
「ほら、雪乃の番だぞ」
 横に一歩避けて雪乃を呼ぶ。
「はいっ」
 元気よく返事をした雪乃はいそいそと俺の隣にやってきた。
「えいっ」
 かけ声と共に、雪乃は胸元でしっかりと握りしめていたお賽銭を放り投げた。
 雪乃の手から離れた五円玉が宙を舞い、ちゃりりりんっ、という音と共に賽銭箱に消える……。
 ……ちゃりりりん?
 賽銭箱には一枚では無く三枚の五円玉が投げ込まれていた。
 俺は驚いて雪乃を見たが、雪乃はそれに気付かず目を閉じて何かを一生懸命に祈っていた。
 それを見た俺は雪乃の邪魔にならないよう大人しく見守った。


      §  §       


「ただいま〜」
 自分のアパートに帰ってきた俺は、ドアを開け無人の部屋に帰宅を報告する。
「お邪魔します」
 続いて、雪乃も俺の部屋に訪問を告げる。
「気にしないで上がってくれ」
 靴を脱ぎながら俺は雪乃に声をかける。
「はい」
 雪乃はうれしそうに笑うと玄関へと入ってきた。
「んじゃ、適当に中で待っていてくれ。お茶でも持ってくるから」
 自室に入り、手早く暖房のスイッチを入れた俺は、着ていたジャンパーをベッドの上に放り投げると、そのままキッチンに向かった。

 台所に入るとまず俺はポットの沸騰ボタンを押した。続いてアールグレイの葉を三人分取り出しコースターに放り込む。そのまま二組分のお客様用カップと二人様の小トレーを取り出して机の上に並べた。この辺の手際の良さは飲食関係サービス業に努めている者の面目躍如と言ったところか。
 自分の動きに悦に至りながら、しばし待つ。
 そうこうしてるとポットのお湯が沸いた。まずはカップ一杯に湯を入れ、次いでコースターにはカップ二杯分の湯を注ぐ。
 コースターの中で葉が踊るのを確認し、神社からの帰りに(元日にも関わらず開いていた!)自分の職場で買ってきたケーキを包み箱から取り出して皿の上に並べる。
 最後に、カップに入れた湯を捨て、トレーに載せた。
「お客様。お待たせ致しました」
 そういって、バイト宜しくトレー片手に部屋へと戻る。
「おや?」
 雪乃の待つリビングをのぞき込むと、いつの間にか投げ置いたはずのジャンパーはきちんとハンガーに掛けられ壁につるされていた。
「わざわざかけてくれなくてもいいのに……」
 俺はテーブルの上にカップを並べながら言った。
「ただ待ってるのも悪いですから」
 恥ずかしそうに微笑みながら雪乃が答える。
「ありがとうな」
「……はい」
 雪乃は頬を染めながらにっこりと笑う。
「それじゃ……」
 紅茶とケーキを並べ終えた俺は、雪乃の横に腰をおろす。
「食べようか?」
「はいっ」
 雪乃が嬉しそうに頷く。
 それを確認した俺は自分の為に紅茶を入れたカップを手に取る。
 まずは一口。
 うん。なかなかの味だ。ここまで凝ることは久しぶりだったが、やはりそれだけの手間をかけただけはあるようだ。
 ……いや、本当はそんな気がする、と言うだけなんだが。
 手間かけた分、そんな気がすると思わなくもない。
 二口目をすすりながら、俺は雪乃の方をうかがった。
 カップを手にした雪乃は立ち上る香りをかぎ、そっと一口口に含む。
 そして、ふうー、と息を細く、長く吐き出すと、俺に向き直って言った。
「おいしいです」
 その言葉にほっとしながら俺は答える。
「そうか? 安物の紅茶なんだがな」
「でも、手間が掛かっていますから」
 そう言って雪乃は微笑んだ。
「判るのか?」
「はい」
 雪乃がうなずく。
「香りの立ち方が違いますから」
「そこまでわかる人間はあんまり居ないと思うぞ」
「紅茶は好きですから」
 確かに雪乃の家で出される飲み物はいつでも紅茶だったな。あれは雪乃のこだわりだったのか。それなら仕方ないな、と妙に納得してしまう。
「暖かいです」
 二口目を口に入れ、幸せな表情で雪乃がつぶやく。
「そうだなあ。待ってたときは寒かったけど」
 その言葉に、ばつの悪そうに雪乃がうつむく。
 そんな気で言った訳じゃないんだけど……ちょっとはフォローしてやらないとまずいかな?
「やっぱり、着物ってそんなに着るの手間が掛かるものなのか?」
 そう言って話を逸らす。
「やっぱり、洋服とは勝手が違うからな」
 しかし、雪乃は申し訳なさそうに頷いたまま固まっている。
「……どうした、雪乃?」
「……その、ほんとうはまきちゃんに『たまには一時間くらい遅らせて行って困らせなきゃ』って言われて、それで……」
「……あいつめ」
 雪乃の言葉に苦笑いを浮かべてしまう。
 おそらくは、自らの企みが成功して楽しんでいるであろう幼なじみの顔が頭の中をはね回っては消える。
 ……あいつもどうして雪乃にこんな事をさせるかな……。
「じゃあ、もう三〇分は?」
「あれは、その、雪が降ってて……」
「ああ」
 納得。つまり、交通機関の混乱に思いっきり巻き込まれたということか。今日は何から何まで雪にたたられてるな、俺。
「それじゃ仕方ないな。天気ばかりはどうにも出来ないしな」
 俺はあきらめと悟りが半々といった顔で息を吐き出す。
「おみくじもついてなかったし……案外このことを言っていたのかもな」
 そう口にして、神社でのことを思い出す。
「そう言えばさ、雪乃」
 ふと、疑問に思ったことを聞いてみた。
「はい」
「どうして三枚も五円玉を投げたんだ?」
「えっ?」
 いきなりな質問に雪乃は驚いた。
「やっぱり、願い事が三つあったのか?」
「見てたんですか?」
 そう言って雪乃はいたずらが見つかったとき浮かべるような顔をする。
「うん。しっかりとね」
 カップを持ったままわざとらしくにやっと笑み浮かべて俺は尋ねてみる。
「良かったら教えてくれないかな」
「……秘密です」
 雪乃は困った顔をしながらも、俺の疑問をやんわりと拒絶する。
「こういう事は他人に言っちゃうと適わなくなるっていうじゃないですか」
「ちょっとくらいいいじゃないか。ほら、他の誰にも言わないから」
 そう言って雪乃にお願いしてみる俺。
「だめですって」
 聞いてくれない雪乃。
「駄目なのか?」
 それでも諦めずくらいついてみる俺。
 しばし無言でにらみあう。
 その様子に諦めた雪乃が言った。
「……じゃあ、代わりに秀晃さんのお願いも教えてください」
「俺の?」
 雪乃の言葉にちょっと驚きながらも聞き返す。
「はい」
 雪乃はいたずらっぽく笑みを浮かべた。
「だって、私だけが教えるなんてずるいです。秀晃さんも教えてくれないなら私も言いませんから」
 それは、たしかに道理は通っている様な気もしなくもないが。
「それはいいけど……でも、聞いても面白く無いと思うぞ?」
「いいです。聞きたいです」
 にこにこしながら雪乃が言う。
「五〇〇円玉なんて入れてたんですから、きっと私よりたくさんお願いごとをしたんですよね?」
 何だかんだ言って、雪乃もしっかり見てるじゃないか。
「まあ、三つ以上ではあるな」
「秀晃さんのお願い、楽しみです」
 そう雪乃は楽しそうにのたまってくれる。
 ううっ。そんなきらきらした瞳で見つめないでくれ雪乃。むしろこっちが恥ずかしくなる。
「……え〜と。まずは、『バイトでマスターにいびられないように』、だろ。次に、『宝くじが当たりますように』、だろ。そんでもって、『新しいパソコンが手に入りますように』だろ。後は、『美味いものが腹一杯食えますように』だろ……」
 指折り数えながら願ったことを口にする。
「で、『病気にならないように』、『まきえにかみつかれないように』、『佐倉家で智津子さんと鉢合わせしないように』、『潜入中に家の人に見つからないように』、『帰るときも見つからないように』……」
 そこでいったん言葉を切る。雪乃の方を見ると、どう突っ込むべきか困ったような引きつった笑みが浮かんでいる。
「で……最後が、その……」
「その?」
「その、だな……。『雪乃がこれからも幸せでいられますように』、と」
 言ってて顔に血液が集まっていくのが自分でも判る。
 ちらりと雪乃を見る。案の定、雪乃は顔をうつむけて湯気が見えるほど真っ赤になって固まっていた。
「……恥ずかしいです」
 消え入りそうな声で雪乃が言う。
「だ〜か〜らっ、はずかしいって言っただろ」
 自分の口にした言葉のこっぱずかしさからどうしても返す言葉もぶっきらぼうになってしまう。
「ほら、俺は言ったんだからな。約束は守ってくれよ」
 強い口調のまま尋ねる。
「雪乃は何をお願いしたんだ?」
「えっ? あのっ、そのっ」
「俺が言ったら、雪乃も言うんだよなっ?」
 雪乃はしばらくの間躊躇していた。
「……判りました。約束ですから」
 しかし、覚悟を決めたらしく、約束、約束と呟いた後、雪乃は口を開く。
「一つ目は、『みんながこれからも幸せでいられますように』って」
 頬を染めながら雪乃が言う。
 それは本当に雪乃らしいお願いだった。
 他の誰でもなく、雪乃にしか言うことの出来ない、そして、叶えることの出来ない願いだと、俺は思う。
 やっぱり雪乃は雪乃だった。
「二つ目は、その、……智津子お姉ちゃんには言わないでくださいね」
「……智津子さんについてなのか?」
「はい」
 俺は腕を組み、厳かに、そして力強く頷く。
「判った、決して智津子さんには言わないから安心して言ってくれ」
「そんな自信たっぷりに言われるとかえって不安になっちゃいます」
「ごめんごめん。ま、単なる決意表明だと思ってくれ。で、何をお願いしたの?」
 一秒ほどためらった後、雪乃は小さな声でつぶやいた。
「その……『早く智津子お姉ちゃんにいい人が出来ますように』って」
「は?」
 一つ目とはあまりに差のある内容に、思わず俺は硬直してしまった。
「ぜ、絶対に言わないでくださいねっ。こんな話聞いたら絶対お姉ちゃん怒りますからっ」
「……そうだろうなあ。確かに言えないわな」
 こんな事智津子さんに迂闊に喋ろうものなら、速攻で滅殺されてしまいかねん。
 しかしどうしてあれだけの女性に恋人が出来ないだろう? ……やっぱりいい女過ぎて男の方が二の足を踏んじゃうんだろうなあ。
「で、最後の一つは?」
 自分の想像に納得しながら雪乃に最後のお願いを聞く。
「……あの、やっぱり言わなくちゃダメですか?」
「当然」
「どうしても?」
「もちろん」
「ほ、本当に?」
 ……ずいぶんガードが堅いな。
「そんなに言いたくないことなのか?」
 俺がそう言うと、目に見えて雪乃はあたふたとなる。
「えっ、あ、その……。出来れば秀晃さんにだけは言いたくないんですけど……」
「へ?」
 思わず聞き返してしまう。
「俺にだけは?」
「あの、その、別にやましい事じゃなくて、その……」
 雪乃は急に口ごもる。
「ふ〜ん、そうか。俺にだけは教えてくれないんだ……」
「えっ、あのっ」
 俺は雪乃から目を逸らすと、誰に聞かすともなく呟く。
「そうか。俺にだけは言えないのか。まきえや智津子さんには言えても“俺にだけは”言いたくないんだ」
「……」
「仕方ないな〜。まあ、そう言うこともあるよね〜(棒読み)」
 そして、ちらり、と雪乃の様子を窺う。
「あ、あの……」
「人間誰しも他人に言えないことの一つや二つはあるもんね〜(棒読み)」
 もう一丁ちらり。
「……」
「でも、出来たら、言ってほしかったな〜。雪乃が、俺に、教えてくれるのを、期待してたんだけどな〜(棒読み)」
 とどめにちらり。
 それでも雪乃は俺と目を会わそうともしない。ひたすら別の方を向いてごまかしている。……思ったよりも手強いな。
「さっきのこと、智津子さんに言っちゃおっかな〜」
「ず、ずるいですっ! それは駄目ですっ!」
 俺の切り札に、泣きそうな表情で雪乃が大声を上げた。
「わ、判りましたっ。言います。言いますから、そうやって拗ねないで下さいっ」
 ふっふっふ。どうやら根比べは俺の勝ちのようだな。
 ……まるで子供だな、俺。
「でも、聞いても絶対に怒らないでくださいね?」
「おう」
「本当に本当ですね?」
「ああ」
「絶対に絶対ですよ?」
「大丈夫だって」
「約束して下さいね?」
「……判ってるって」
 そこまで念押ししないといけないほど言いにくいことなのか?
 あまりのしつこさにおれは少し不安になりながら雪乃の言葉を待つ。
「3つ目のお願いは……、その……ごにょごにょ」
「ん? よく聞こえないぞ?」
 消え入りそうな言葉を聞き取ろうと、俺は雪乃の口元に耳を寄せる。
「……『秀晃さんが、あれの時に恥ずかしい事をさせないように』って……」
「…………」
 俺は思わず言葉を聞いた体勢のまま硬直した。
「だって、秀晃さんえっちさんですから……その、この間の時も色々と……」
 一度言い出したことで、雪乃はもう止まることなく口からとどまることなく次々に言葉が吐き出される。
「この前は台所でご飯作ってるときにいきなりだったし、その前は学校の制服着たままだったし、この間なんかお風呂に入ってるときで……」
「……」
「とっても恥ずかしかったんですからっ」
 半ば科けっぱちで、怒ったような、泣いてるような、恥ずかしい酔うなあ、そんな感情がごちゃ混ぜになった顔で雪乃は最後まで言い切った。
「だ、だからその……するときはもう少し場所とか状況とか考えて……」
 雪乃の言葉はそのまま消え入りそうに尻窄みになっていく。そして、湯気を出した状態で俯いてしまった。
「…………」
 沈黙が一秒。周囲が静寂に包まれる。
「……雪乃さん」
 俺はそっと雪乃の手を握った。
「は、はいっ!?」
 びくっとはねるように雪乃が居住まいを正した。
「……今日は寒かったな〜」
「え、ええっ!?」
「待ってる間、とっても冷たかったんだよね〜」
 そう言いながら俺は雪乃の肩に手を回す。
「ひ、秀晃さん、怒らないって約束してくれましたよね?」
 できる限り落ち着いて、でもその実大慌てで、雪乃が聞いてくる。
「怒ってないって」
 そう言って俺はにっこりと笑う。
「怒っていますっ。秀晃さん絶対怒っていますー」
「そんなことな・い・よ♪」
「だっ、ダメです。そんなっ、今日はダメっ」
 俺から離れようと雪乃が必死で体をずらす。
「着物着てるし、その、お姉ちゃんの借り物だし、で、ですから……」
 雪乃の顔は羞恥で真っ赤になり、目の端にはうっすらと涙が浮かんでいた。
 それを見た俺は肩にやっていた手の力を緩めた。
「……判った」
 そう言って体を離す。
「……ほっ」
 俺の言葉に雪乃が安堵の息をつく。
「でも、今回はだめ」
「え?」
 驚いて俺の方をむいた雪乃の隙を突き、半ば無理矢理に彼女の唇を奪う。
「んっ!?」
 突然の奇襲に雪乃は体をくねらせて抵抗するが、イニシアティブを奪われた状態で俺の攻撃に抗することは出来ず、羞恥とは別の理由から頬を染める。
 そのまま雪乃の体から力が抜け、抵抗が無意味なものになるまで俺は雪乃の唇を貪り続けた。そうして、ゆっくりと顔を離す。
「……はふぅ」
 熱い吐息を吐きながら、真っ赤な顔で雪乃が俺の胸に倒れ込む。
 それと同時にさっきまで俺たちの唇からひいていた糸が切れる。
「……やさしくするからな」
 雪乃の耳元に口を寄せながら俺はささやく。
 目を閉じ、頬を染めた雪乃が小さく頷く。
 俺はそっと雪乃を抱き上げると、静かにベットへ横たえた。


 でまあ、暗転。


      §  §       


「とまあ、そこで野良犬に襲われちゃってだな……」
「それは大変でしたね〜、秀晃さん」
 そう言って雪乃とは異なる黄色い声が俺にかけられる。
 わずかに頬を引きつらせながら俺は厳かに頷く。
「ふーん。で、どうやったら『脱いだ方がまし』なんて状態まで着崩れるのかしら?」
 別の角度から棘のある女性の声が飛んできた。
 俺のいったいどうごまかそうと思案しながら、かつ動揺をあらわさないように、ゆっくりと声のかけられた方向に向き直る。
 場所は”ラ・パルティータ”。言わずとしれた俺の職場である。

 俺の雪乃の目の前にはまきえと、智津子さんがいた。
 その、色々あって、雪乃の着ていた着物が着崩れた結果、何とかしないといけなくなったのだ。
 で、まきえに代えの着替えを持ってきて貰おうと連絡したら、あいつは智津子さんにとっ捕まって一部始終を話す羽目になり、こうして一緒にやってきているというわけだった。
 でまあ、俺の家じゃいろいろと問題もあるし、かといって他に適当な場所も無いというわけでここのスタッフルーム──というか、着替え室を借りているという訳だった。
 ちなみに、今雪乃は俺の服を着ている。

「ですから、初詣の帰りに野良犬に追いかけられて思い切り走ったときに」
 俺的には完璧な表情で雪乃のお姉さんに、公的には正しい事情をお話する。
「ふーん。着物ってちょっと走ったくらいで着崩れる物なのね。勉強になったわ」
「いや、そういうもんなんですよ。なあ、雪乃」
「は、はいっ」
 唐突に声をかけられ、動揺が傍目にもはっきりわかる様で雪乃が頷く。
「まきえもそう思うだろ?」
 ごまかそうと、俺はあわててまきえに声をかける。
「さあ、どうですかね〜。私は着物を着て思い切り走った経験なんてないし……」
 まきえは目をそらしながら言った。
(まきえ! フォローはどうしたっ)
(すいません、秀晃さん。所詮私は雇われ者の身。雇用主を裏切ることは出来ないんです)
(そ、それはあまりに薄情だぞまきえ)
(なんとでも言ってください。秀晃さんへの好意と智津子さんの怒りとを天秤に掛けたら私は躊躇無く智津子さんの怒りを回避する道を選びます)
(俺と智津子さんじゃなくて、雪乃と智津子さんを天秤に掛けないのか!?)
(そんなコトしたら私の身が危険になるじゃないですか! 私は雪乃と自分の身を守るために秀晃さんを天秤に乗っけます)
(お、覚えていろよ〜)
 俺は鉄をも貫く鋭い視線を向けたが、まきえは目を会わそうとしない。
 頼むべき戦友とのアイコンタクトは不本意な結果に終わった。
「いやあ、とびきり大きな犬だったもので」
 仕方なく自分でフォローを入れる。
「犬じゃなくて狼だったんじゃないの?」
 智津子さんは目を細めると、たおやかな手を胸元で組み直し、こうおっしゃってくれた。
「若いっていいわね」
 ぐあっ。
「いや、そう言うわけではなくてですね、これは」
「これは?」
 あ、あう。表面上こそにっこりと微笑んでいるが、智津子さん目の奥はまったく笑っていない。
「あの……お姉ちゃん、ごめんなさい」
 智津子さんの闇をも貫く視線に耐えきれなくなった雪乃が謝った。
 それを微動だにせず眺めていた智津子さんは、ほう、とため息をつくと、
「雪乃は悪くないわ。こういう事の9割9分9厘9毛は間違いなく男の方に問題があるんだから」
そう智津子さんは、雪乃に優しく語りかけた。
「それはもしかして遠回しに俺が悪いと言ってますか?」
「なんの事かしら?」
 俺には目も会わしてくれることなく智津子さんが疑問で返す。
「まるで俺が犯罪者であるみたいに聞こえるんですけど……」
「二十歳にもなって、大学にも行かず、就職すらしないままバイトだけで生活しているようなぐーたら人生を送っている人間が、『箱入り娘の女子高生とよろしくしてる』なんて言ったら、世間一般の大部分は彼のことをどう思うのかしらね?」
「すいません。僕が悪うございました」
 俺は額を地面に擦りつけんばかりに平伏して謝る。
「さっさと謝ればいいのよ。言い訳するからこんな事になるの」
「……すいません」
 俺の姿に智津子さんは思いきりため息を吐いた。
「こんなんじゃゆっくり自分の人生を過ごすことも出来ないわ」
「ゆっくり何をするんですか?」
 ギンッ、と強烈な殺気が俺を襲った。
「いらないことには気が付くのね、秀晃君」
「俺は何も聞いていません。はい」
「聞き分けのいい人って好きよ」
 智津子さんがそう言うと、ようやく見えない圧力がゆるんだ。
 智津子さんが雪乃に手招きする。
「ほらっ。手伝ってあげるからこっちに来なさい」
「は、はい」
 後ろに隠れるようにしていた雪乃がおずおずと智津子さんの方に行く。
「じゃあ、背中を向けて」
 そう言いながら智津子さんは畳んであった着物を手早く広げていく。
「しかし、智津子さんって着物の着付けも出来るんですね」
「この着物は一応私のよ。あなただって自分の服くらい自分で着れるでしょ?」
 あ、いや、それはそうなんだけど。日常的に着物を着る人はあまりいないんじゃないかと。ていうか、持ってる人自体ほとんどいないと思うんだが……。
「さて?」
 ゆっくりと智津子さんが俺の方に向き直る。
「いつまでここにいるつもりなのかしら、仲原くん? 今からここで女の子の着替えをするんだけど?」
「あ、はいっ。仲原秀晃ただいまから出ていきます!!」
 俺は艦発促進装置で押し出されるがごとき勢いで外に飛び出た。そうして、大慌てでバタンと扉を(当然後ろ手で)閉める。
「ふう……」
 ようやく一息つく。……軽い一息のハズなのに、どうしてこんなに重苦しく感じるんだろう。
 扉の向こうからは、全く、簡単に状況に流されて……とか脱がせたかったら着せ方くらい覚えてからにして欲しいわね、なんていう会話が聞こえてくる。うう、胃が痛い。絶対聞こえるように言ってるよな……。

「……もういいわよ。仲原くん」
 五分ほど立ちっぱなしで待たされた後、ようやく中から声がかけられる。
「……失礼しまーす」
 ゆっくりと扉を開け、部屋の中に入る。雪乃は今日俺が会った、小粋な着物姿に戻っていた。
 男物の服も名残惜しかったから、ちょっと残念かな。いや、今もとっても可愛いけど。
「ところで一つ聞くけど」
 手早く雪乃に着物を着せ終えた智津子さんが言った。
「はい?」
「あなた達、どこの神社にお参りに行って来たの?」
「へ? そりゃ一番近い……」
「橘神社?」
「そうですよ」
 一瞬智津子さんの表情が固まる。
「悪いんだけど」
 眉間に指を当てた智津子さんが言葉を続ける。
「あそこがなんの神社か知ってるの?」
「へ? 商売繁盛ですよね?」
「そうじゃなくて、女の神様でしょ?」
 なんのことかよくわからないんだが……。
 そんな俺の表情を見て、智津子さんが言う。
「だから、嫉妬深いのよ」
「はあ?」
「つまり」
 本当にあきれた声で、智津子さんが宣言した。
「あそこ、縁切り神社ってこと、知ってた?」


                 (終わり)
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