ある少年の憂鬱
作:水上隆蘆
恐怖が迫っていた。
背後にあるのは破局。
少年は逃げていた。
来るべきさだめを避けようと。
戦慄すべき未来を回避しようと。
抗いようのない運命から逃れようと。
息を潜める。
公園の中。その隅に生えてる木の陰から、窺うように周囲を見回す。追っ手はいない。いるのは、ただぶらぶらと道を行く野良犬だけだ。
少年はほっとした。思わず安堵のため息をつきかけ……すんでの所で思いとどまった。
油断してはいけない。
恐るべき追跡者はけして彼を逃さない。どのような場所に隠れていようと決して諦めない。
再び体を木の陰へと潜ませる。
大丈夫だ。ここならきっと見つからない。
自分を説得するように自分に言い聞かせる。そう、少なくとも、今日一日は──
「何をしているんですか?」
唐突に、背後から声をかけられた。
「うわぁぁぁぁぁ! ごめんなさいっ! 別に逃げようとしてこんな所にいるんじゃないんだ。ただ、ちょっと疲れたから座って休んでいただけなんだあっ」
「……どうしたんですか?」
頭を押さえてうずくまっていた和人は、おそるおそる声の主を見上げた。黒髪をおかっぱにした女の子だった。不思議そうな目でこちらを見ている。頭の左右に髪留めの代わりにひもを付けていた。
「なんだ、桜香ちゃんか……」
安堵の息を吐く。
「どうしたんですか?」
地面にへたり込んだ和人に、わずかに首を傾げながら桜香は再び同じ事を聞いた。
「えぇと……その」
和人はわずかに躊躇した。が、桜香の顔を見て諦めたように口を開いた。
「うん……実は……」
「和君ですか?」
桜坂市商店街。昼間、人通りのど真ん中で少女は元気に聞き返した。
強気そうな瞳の少女で、頭に白いリボンをしている。腰まで伸びた長い髪は癖もなくストレートだ。ただし、一房だけ髪がトレードマークのように上へと跳ねていた。10年後には──いや、8年も経てば、街で屈指の美少女になっていると思わせるに十分な容姿をしている。
「そう、和人がどこにもいないのよー。だからこうして探してるんだけどね」
目と口元に笑みを浮かべて、一人の美人が少女への質問を補足する。年の頃は二十代半ばかわずかに越えたあたりに見えた。おっとりとした容姿をしている。だが、恐ろしいまでに隙がない。それがかえって異様な雰囲気を漂わせていた。肩までの長さで切られた髪が自己主張するように跳ねているのも、いっそう彼女を猛々しく見せていた。
「瑛ちゃん達ならきっと何処かで見てると思ったんだけどねぇー」
脇に抱えた紙包みを嬉しそうに揺らしながら、和観が答える。
「すいません和観おばさん。今日は私たちまだ和君にあっていないんです」
瑛と呼ばれたリボンの女の子は申し訳ない顔を浮かべ、年上の女性に謝った。
「瑞音は、和君見た?」
瑛が、隣に無言で立っている親友を振り返る。
「和人君ですか? 私は見てないですよ」
瑞音と呼ばれた少女は首を左右に振った。黄色い組み紐で留めた、肩をわずかに越えた長さの髪も同じように揺れる。大人しそうな雰囲気をたたずませた少女だった。瑛とはいろんな意味で逆の雰囲気を周囲に発散させている。瑛と同様、瑞音もまた髪が一房上へと跳ねていたがその向きは逆だった。この辺りもまた対照的だ。
「だって、今日は瑛ちゃんが私の家に誘いに来たじゃないですか」
「ああ、そうだったよね」
瑛も困ったように額にしわを寄せた。
「おかしいわねぇ。瑛ちゃん達と一緒じゃないとすると……椿ちゃんと一緒なのかしら」
「まさか、それはないと思いますけど」
和人の母親から出た友達の名前に、半ば反射的に反応した瑛が答えた。
「椿ちゃんは今、塾ですからそれはないと思います」
瑞音もたおやかな仕草で首を傾げて否定の意見を口にする。
「しかたないわねえ。じゃあ、悪いけれどいつもみたいにあの子の場所教えてくれるー? 二人で協力して」
笑いながら和観は言った。
「はいっ。和観おばさんたってのお願いですから、私頑張ります」
喜色を浮かべて瑛が言った。
一方の瑞音は、無言で首を縦に振る。顔には、瑛と同じ色を浮かべている。
「じゃあ、ちょっと待っていてくださいねっ」
そう言って瑛と瑞音は人混みを避けながら道の両端へと別々に歩いていく。そして、端まで来るとじっと何かを聞き取るように目をつぶった。
跳ねた癖毛がぴくぴくっと振動した──様な気がした。
二人の少女は無言でとある方向を指さす。
「瑛ちゃんが34.5度13分5秒……瑞音ちゃんが39.1度42分8秒……っと」
和観はどこから取り出したか桜坂市中央繁華街の精密地図を手に、定規でマッピングを行っている。
「あらは? この先の公園ねー」
和観は瑛と瑞音が指さしていた方向がバッティングする場所に眼を留めにやりとした。ある種凄惨な笑顔だった。
「ごめんね〜、二人とも。強力ありがとうね」
「いいんですよ、ね、瑞音」
「はい。和観さんの頼みですから」
そう言って和む一人の女性と二人の少女。
「さてさて……。待っていてねー、和人」
そう言って笑うと、和人の母親はあっという間に人の波に消えていった。その様を見送りながら、瑛は呟く。
「……和観おばさん楽しそうだったけど。和君一体何をしたのかな?」
「きっと、和観おばさんが喜ぶようなことです」
不思議そうな顔をする瑛の隣で、笑った瑞音は妙に確信を持って答えた。
「……つまり、和人さんはお母さんに追いかけられているということですか?」
公園の隅。設置されていたブランコに腰掛けながら桜香が訊ねた。
「かいつまんで話すと、そう言うことになるのかな」
和人は苦笑した。周りを見回す。相変わらず周囲には人影はない。見かけるのは、たまにやってくる野良猫くらいだ。
「人は……母親が愛しいものなのではないのですか?」
「それは、そうなんだけれど……」
真顔で発された発言に、さらに複雑な顔をする和人。
「お母さんは嫌いですか?」
「そんなことはないよ」
否定する。地面を蹴った。ブランコは、反動を受けてゆらゆらと揺れた。体も、前後に揺れる。
「……でも、やっぱり嫌なものは嫌だし」
歯切れが悪い答えだった。むしろ言い訳に近い言い方だ。
「私はヒトの……和人さんの心は分かりませんから、何も言えませんけれど……」
そして、桜香は遠くを見つめた。
和人は彼方を見つめる桜香の横顔をじっと見つめた。
「和人さんも、私の心の中は分からないみたいに」
そして桜香は弱々しく笑った。
「そうだね……」
和人は何とも表現に困る顔になった。
彼は、周囲は観察眼が鋭い子供と理解されていた。
しかし、実際はそう簡単なものでもないのは和人自身が何より理解していた。
彼は人の心の中を覗ける才能がある。
分かってしまうのだ。嘘も、本心も、何もかも。
本の世界では、この力を欲しがる人間はいくらでもいる。それは、裏返せば世間一般では便利な能力だと思われているということだろう。
しかし、和人にとってはうっとうしい以外のものではない。
ふと気を抜くと、目の前の人間の心の中を読んでしまう。怒りも、哀しみも、怨みも、はかりごとも。
和人が、同世代の子供として図抜けて大人びているのは、明らかにこの才能の影響だった。人の本心が分かるから、どうしても汚いものが見えてしまう。だからこその自衛といえた。世界は綺麗でない事を認めなて適当なところで妥協しなければこの状況に耐えられない。
和人が誰にでも優しいのも同じ理由からだった。何か哀しい事が起これば、その傷ついた思いは彼を襲う。だから、みんなが幸せでいて貰いたかったのである。せめて、自分の回りだけでも。
そうした自己基準は、積極的に良いことだとは思えなかった。何か大事なことを裏切っているような気がするからだ。
和人は頭を振った。
思えば僕は幸せだ、と和人は思う。自分の回りには優しい人ばかりいてくれるから。
お母さん、瑛、瑞音、……。みんな心から僕のことを心配してくれているのがわかる。
疎ましく思っていた僕のこの力を、みんな分かっていて好きでいてくれる。
だから僕は、彼女たちに隠し事はしない。
それが、僕を信じていてくれる人たちへの、心を読んでしまう自分が出来る事だから。
でも桜香ちゃんは──
再び和人は桜香の横顔を見た。
目の前で小さく笑う少女は、和人にとって不思議な存在だった。
じっと彼女を見つめる。
なぜだかわからなかったが、彼の心をのぞける能力は、彼女にだけは効果を及ぼさなかった。
それがどうしてなのかは分からない。今まで、けしてそんなことは無かったのに──
今、和人は煩わしいはずの力が欲しかった。心の中を知る力が欲しかった。分からない彼女の本心を知りたかった。
「和人さん?」
桜香に声をかけられた。和人は、はっと我に返る。
「な、なにかな?」
あたふたとしながらわずかに裏返った声で答える。自分の考えを覗かれた気がして、真っ赤になった。次いで後悔が襲ってきた。心を見れる彼だからこそ、その思いは激しく強かった。
そんな和人を不思議そうな瞳で見つめる桜香。
「……逃げなくてよろしいのですか?」
「へ?」
「和人ー、見つけたわよー♪」
聞き慣れた声に慌てて振り返る。背後から、文字通り煙を巻き上げながら突進してくる自分の母親がいた。
「う、うわぁああああ!」
和人は悲鳴をあげてブランコから飛び降りた。慌てていたため、半ば地面に投げ出されるようになった。そのまま二度ほど体が大地の上を転がる。
土だらけになりながらも和人は、ブランコを囲む柵をつかんで慌てて起きあがった。
しかし──再び走りだす事は叶わなかった。
「あらはー、そんなにお母さんが嫌い? 悪い子よねー。そんな子に育てた覚えはないんだけど」
しっかりと息子を背後から羽交い締めにした和観は、思いきり頭を締め上げた。もちろん、満面の笑顔を浮かべている。
「お、お母さんっ、ギブ、ギブぅう」
骨が軋む音が聞こえる。和人は泣き出す寸前の顔をしながら哀れな悲鳴を上げた。
「もう、和人ったら男の子でしょー? そんなやわな事じゃこの厳しい世の中生きていけないわよ?」
無敵の母親は名残惜しそうに和人を解放した。哀れな息子はうめきながら地面に突っ伏して鈍痛に耐えていた。
「しかし、泥だらけじゃない。これは好都合よねー。さあ、着替えましょうか、和人」
頭上から和人を見下ろしながら和観は言った。そうして、脇に抱えていた紙包みを大仰な動作で広げる。
中から出てきたのはなんとセパレートだった。見まごう事なき女の子用の服である。
「お、お母さん。だから、僕は女の子の服なんか着たくないよっ」
地面から見上げながら和人が反論した。
「服にはかわらないじゃない。着ちゃえば一緒だって」
にっこり完全無欠の笑顔を浮かべた母親は、息子ににじり寄る。
「聞いてない。お母さん、聞いてないよぉ」
「大丈夫、きっと似合うから。お母さんのお薦めよ」
母親とのかみ合わない意見交換を行いながら周囲を見回す。二人にやりとりを呆然と立ちつくしながら見ていた桜香と目があった。和人は四つん這いなのもかまわず慌てて桜香の後ろに隠れた。
「あらは? その子は?」
ようやく桜香の存在に気が付いたらしい和観は不思議そうな表情を浮かべた。そして一言。
「和人、新しい女の子?」
「お母さん……その言い方はどうかと思う」
「意味は分かるんだから、細かいことを気にしちゃ駄目よ和人」
和観は躊躇無くそう言いきった。
さすがに桜香も困った表情を浮かべている。
「お名前は?」
和人を追いかけ回していたときの嬉しそうな顔から普段の顔に戻ると、和観は優しい口調で尋ねた。
「あ、その……桜香ちゃん、だけど」
困ったままでいる少女の代わりに和人が答える。
「ふーん」
和観は険しい顔になると、じっと少女の瞳をのぞき込んだ。
そして、にこりと笑う。
「桜香ちゃん。和人のこと好き?」
「えっ?」
唐突な言葉に少女は目を丸くした。
「もしそうだったら、和人と仲良くしてあげてね」
そう言って、和観は優しく両肩に手をやり笑いかける。
「あ、……はい」
困惑が混じった顔で桜香は答えた。
しかし、その姿に和観はうんうんと何度か頷いた。
「さすがねー和人。こんないい娘を見つけてくるなんて。お母さん嬉しいわー」
そう言って桜香を抱き寄せると頭を撫でる。
桜香は恥ずかしそうに頬を染めた。
「でもね、和人」
桜香を優しく抱きしめながらも、和観はくるりと和人の顔を振り返る。そして、にこりと笑った。
「な、なにかな、お母さん?」
向けられた表情に、和人の危険感知装置が反応する。慌てて後ずさろうとした。
しかし、逃げることは叶わず、再び母親に捕まえられた。そして。
「男の子が、女の子を、盾にしちゃ、だ、め、で、しょぉぉぉぉぉぉ?」
「痛たたたたたたたたたたたっ」
今度は以前より強く、えぐるように和観は息子の頭を絞め上げた。
「こ、拳は痛いって! 頭に穴があいちゃうよぉぉぉ」
涙目になって必死で抵抗する和人。しかし、偉大なる母親に抗う術はあるはずもない。
「これは愛の鞭なんだから、和人もしっかり耐えなさい」
そう宣いながら、まるでそれはいつもやっている家事の一部だと言わんばかりの表情を浮かべながら和人を絞め上げる。
新たな悲鳴が上がった。
「……さってっと」
一分ほどの後、ようやく飽きたらしい和観は和人を解放した。解き放たれた罪人は哀れなほど蒼白な表情で地面に突っ伏している。
「じゃあ、着ましょうねー和人」
女の子用の服を広げた和観は和人の隣にひざを降ろした。
「嫌なものは嫌だよっ」
和人は慌てて立ち上がり、母親に対して身構えた。素早い回復力だった。生傷の絶えない毎日のおかげである。
「あらはー。どうしても着てくれないのねー?」
母親は広げた服と息子とを交互に眺めた後、寂しそうな表情を浮かべた。
「この服、こんなにかわいいのにー」
「そんなひどく残念そうな顔したって駄目だよお母さん。僕は絶対に着ないからね」
息子の目は真剣だった。さすがの和人も、男としての沽券に関わることに対しては頑強に抵抗する気らしい。
その様に、和観は心底困った顔になる。
「そもそもどうして女の子の服が家なんかに来るのさ」
母親の今までの言動にうすら寒いものを覚えながらも、和人は長らく疑問だったことを訊ねる。
「あらは? それはやっぱり、この写真送ったからかしらねー?」
そう言いながら和観は、服がいれられていた袋の中から一枚の写真をとりだした。
和人はそれをのぞき込んだ。
「こ、これっ!」
頭から血の気が引いた。慌てて母親の手から写真を奪い取る。
写真には、3日前に和人が尊敬する近所のお兄さん──舞人兄によって、昼寝してる間に女装させられた時の姿が映っていた。それも、服だけでなくわざわざカツラから化粧まで行われているという徹底的なものである。和人にとって、一刻も早く忘れたい負の記憶であった。
「それで、お母さんの友達からあれが送られてきたのっ!?」
今日何度目か分からない泣きかけの表情で、写真を握りしめる。
「だって可愛かったしねー」
そう言って楽しそうに笑う和観の顔には、悪意などひとかけらもない。
「裏にしっかり『うちの和人』って書いたんだけれどねえ……」
母親はそう付け加えたものの、今になっては言い訳にしかならない。
「いいじゃない、和人。もう一回も二回も一緒だって」
「あれは家の中だしっ! こんな普通の日の外で僕があんな格好なんかしてたら単なる犯罪者じゃないかっ!」
息子はほとんど悲鳴に近い声で反論する。
しかし和観はのほほんとした顔で言った。
「そう言ってもねー、もうみんなに写真送るって約束しているのよねー」
和人は、母親の行動力のすさまじさを呪いながら、これは夢であってくれと心から祈った。
「ほら、子供だからお巡りさんも笑って許してくれるわよ、和人」
何故か頬をつまんでいる息子を見ながら、母親が言った。
「僕はそんな憶測を実験したくはないよ」
決然とした顔で母親の顔を見る。ちょっと涙目なのが多少哀れを誘う。
「あらはー。じゃあ、これどうしようかしらねー」
困った困った、とちっとも困った風に見えない顔で言いながら和観が友人からのありがたいプレゼントを眺める。
暫しの沈黙。
母子の目が自然とその場にいる女の子に向いた。
「そうよねー。桜香ちゃん、この服着てみる?」
「えっ?」
急に話をふられた桜香は小さく驚きの声を上げた。
「ほら、せっかく貰った手前、わざわざ返すのもめんどくさいし」
「僕もできれば着たくない」
ぼそりと本音を呟く和人。
「と言うわけで、着てみてくれないー? きっと似合うわよ♪」
和観は桜香の目線まで体を降ろすと、和人の前でやったときと同じようにふるふるとセパレートを揺らした。
「でも」
「いいのいいの。どうせ貰い物なんだから遠慮なんかしちゃだめだって」
そして一息置いて。
「ね?」
完全無欠の笑顔を向ける。
その表情に、根の折れた桜香はぽそりと答える。
「そこまで言うなら……」
「ありがとうねー。桜香ちゃんはとっても聞き分けがいいわねー。和人とは大違いよ」
「聞き分けがいいとか言う問題じゃないと思うけど……」
再び和人の口から本音が吐き出された。
当然、今回も和人の言葉は母親に無視されたが。
数分後──
和観と桜香は公園そばの洋服店から帰ってきた。当たり前のように、桜香は新しい服に着替え終わっている。
「あらはー、やっぱり女の子よねー。可愛いわー。女の子欲しかったのよねー」
改めて着飾った桜香を周りからぐるぐると見回りながら、和観は一人はしゃいでいる。
「やっぱり、可愛い女の子には何着せても可憐だと思わない? 和人」
薄いクリーム色のセパレートを纏った桜香を見せびらかすようにしながら、和観は息子に意見を求めた。
「お母さん、言葉に矛盾が出てるけど?」
和人は、無駄と知りつつ桜香を抱きしめ頬ずりしている自分の母親に言ってみる。そして、当然のように無視された。
「じゃあ桜香ちゃん。今日は一日和観お姉さんにつき合ってくれる?」
いつのまにやら息子のことを忘れている和観は、無敵の笑顔で恥ずかしそうにしている少女をのぞき込む。
「私は……」
「それとも、何か用事がある?」
和観の顔に、一瞬寂しい色が浮かぶ。
一瞬とまどったものの、うつむきながらも桜香は小さく首を横に振った。
「……特に無いです」
「あらはー。じゃあ、いきましょうねー桜香ちゃん♪」
和観は誰が見ても分かるほど嬉しそうに笑うと、桜香の手を取り、再び商店街へと消えていった。
「……助かった」
ただ一人、公園に残され少年は、ぼそりと呟いた。
「……和人、どうしたの?」
どれくらい呆然としていたのだろうか、和人は後ろから声をかけられた。
振り返ると、いつの間にかそこには、いつも一緒にいてくれる二人の女の子が立っていた。瑛と瑞音だった。
見慣れた顔に、和人はほっとため息を吐く。
「あっ、和人、そういえばさっき和観おばさんが探していたよ?」
心配そうに瑛が言った。
瑛の口から母親の名前を聞かされ、和人は思わず先ほどの騒動を思い出して身震いした。出来る限り動揺しないように落ち着いて答える。
「う、うん。さっきまで一緒だったよ……」
「ふーん。だったらいいけど」
納得していない表情で、和人の体を上から下まで見渡す。
「あれ? 和人、どうしてそんなに汚れているのよ」
「あ、これは……」
女装から逃げようとして、地面を転がって出来た汚れだなんて言える訳がない。
「もう、こんなに土まみれになって……」
和人の汚れた服を手ではたこうと、瑛が一歩近づく。
「いいよ、瑛。家に帰って着替えたらいいんだから」
和人は、手を振って制止しようとした。
「和人、汚れたまんまだと気持ち悪いじゃない。良いから背中を向けるっ。……ん? その手に握っているのはなあに?」
はっとして和人は目の前の少女を見た。
瑛の視線は突き出された和人の右手へと注がれている。
そこには、くしゃくしゃになった人には見せたくない写真が……。
「ああっ! だめっ! 見ないで瑛っ!」
慌てて背中に隠そうとした。が、瑛は素早く写真を和人からひったくる。そして、不思議そうに覗きこんだ。
「……和君、女装癖があったんだ」
瑛の声が震えていた。
そのまま無言で写真を瑞音に手渡した。
「まさか和人に限ってそんなことはしないと思っていたんだけれど」
声の質は絶対零度だった。
瞳は……まごうことなき軽蔑のまなざし。
「これは舞人兄の仕業なんだよっ!」
「とっても楽しそうだし」
「寝てるからそう見えるだけなんだって!」
必死の抗弁を行うも、英の態度にはいささかの変化も起こってくれなかった。全く取り合ってもらえない。和人は救いを求めるように瑞音を見た。
瑞音はじっと写真を見ていた。
「……あ、あの、瑞音?」
おそるおそる和人が声をかける。
「瑞音だって呆れてるに決まってるでしょっ! 和人がこんな変態だったなんて知ったらっ!」
和人の襟首を締め上げながら、瑛は怒鳴った。
「そ、そんなことないよね。瑞音はこれが不幸な事故だって信じてくれるよねっ」
締め上げられているほうも、必死の論陣を張る。
そんな二人にようやく気が付いたか、瑞音はゆっくりと写真から顔を上げた。そして、いつものようにおっとりとした表情のままにこりと笑みを浮かべた。
「とっても、可愛いですよ、女の子な和人君」
頬を染めながら、大事そうに写真を抱きかかえた瑞音の姿にその場が凍り付いた。
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