§ §
濃い草のにおいが鼻を突く。
涼しい風に顔をなぶられ、うっすらと目を開けた。
「……んー?」
視線の先には赤い世界。一面に広がる紅の世界。
深く沈んでいた意識が引き戻されていく。
「……あれ?」
視界がはっきりした先には、夕暮れ色の空が広がっていた。
「……希望?」
自分の置かれた状況が飲み込めず周囲を見まわす。
何故だか芝生の上で横になっていた体を起こした。さっきまで自分の目の前にいた少女の名を呼ぶ。
しかし、返事はかえってこない。
それどころか、あたりには人影一つ見えなかった。
かわりに、夕暮れで赤く染まった二本の桜の木がぽつんと立っている。
俺は丘の上にいた。
「……夢、……か」
ようやく、自分の置かれた状況を理解する。
風が吹き、つん、とした臭いが辺りを支配する。この丘の上に生える名前もない青草の臭いだ。
おおきくため息を吐く。半ばまで起こした体を再び雑草の上へと投げ出した。
寝てしまう前の記憶を思い出す。
たしか俺は、昨日眠れずに徹夜して……。
それ以降の記憶は曖昧だった。たしか、今朝がた、気持ちを落ち着けるためにこの丘に登って来たんだったっけ?
頭をひねったが、それ以上思い出すことが出来なかった。多分そのまま寝てしまったんだろう。
「ふぁーあ……」
大きくあくびをした。ようやく頭に酸素が行き渡り、思考がはっきりするようになった。
「……綺麗だな」
寝転がったまま、ただぽつんと立つ二本の桜の樹に目をやる。
夕陽によって赤く染められた樹は、まるで一面に咲く春の姿を彷彿とさせた。
片方は、高く高く天へと幹を伸ばし、もう一方は地面を覆うように途中で幹を二股に分けて枝葉を伸ばしている。
枝の向く先にあるのは街。この丘を下りたすぐ傍に広がるそこには、ここからでも多数の建物が寄り添うように立っているのがよく分かる。そこには俺の住んでいるアパートと、通っている学校、そして、……大切な人が住んでいる。
「彼女、か」
誰に聞かせるとはなしに呟く。
目の前に見える幻想に引き寄せられるかのように呟いた言葉。
それは、三人称ではなく明確な固有名詞。
口にすると、何故か胸が締め付けられる不思議な言葉だった。
さっきまで見ていた夢のシーンを思い出す。
煌めく光の先に見えたのは、一人の少女。
今まで、手に入れようとも思わなかったのに、俺は必要ないものだと思っていたのに。
それが昨日、突然手に入ってしまった。
星崎希望。
俺の彼女。
「彼女、かぁ……」
あれは、紛れもない昨日の夜の出来事。今思い返しても冗談のような話だった。
希望が俺の家の傍まで来たのは、家族旅行のおみやげを持ってきてくれたからだった。
そして俺は、彼女へのお礼として、喫茶店に誘っただけのつもりだった。
ところが、運悪く顔見知りの先輩達がいたため、お約束のように俺達は絡まれてしまった。
正直逃げ出したかったが、相手は女にもかかわらず、腕力では俺を凌ぐというとんでもなく凶悪な文芸部のみなさまでは逆らうこともできない。やかましかしまし恐ろしいお姉さま達は仲良くそろって俺の四方を取り囲んだあげく、いわれのない追及を延々と開始したのだった。
質問一、「ね、星崎さんとつき合ってるの?」
質問二、「なれそめはなんなの?」
質問三、「どうせ桜井のことだから、裏で脅迫しているんでしょ?」
そして最後には、「まさか、あの桜井に限って女の子連れてるのは何かの間違いだよねー」と結論を下したあげく、俺をぼろ雑巾のように捨てたのである。
……それで、やっと解放された俺が希望の所に戻ってきたら、なぜだか彼女は拗ねていて。
いや、今にしたらその理由は解るけど、あの時俺はわからなくて。
いや、それがすなおに認められなくて。
嬉しいはずなのに、喜べばいいことなのに、何処か信じられなくて。
だからそのまま俺と希望は口論になって、公衆の面前にもかかわらず、馬鹿馬鹿しい勢いで馬鹿そのものな事を口走ったのだった。
つまりは希望に告白してしまったというか。
希望が俺に告白したというか。
お互いが告白してしまったというか。
今思い返しても、まるで小説のような出来事だった。
正直、あまりに都合が良すぎて実感がいまだ沸かない。
八月も終わろうとするあの日。夏休みが終わる二日前の出来事。
ただ、あの唇に触れた感覚は、はっきりと覚えていて。
「うわあああっ」
我に返った。いつの間にやら唇に手を当ててる自分に気が付き、慄然として振り払う。
「全く……」
口元をゆがませて毒づく。
全く、硬派でクールな俺のイメージに似合わないこと甚だしい。
「だいたい、何で俺がこんな事で一喜一憂しなければならんのだ。ほんのちょこっと触れただけじゃないか。今時の学生、キスくらいべつだん不思議でも特別でもないよくあることだろう」
眉間にしわを寄せたまま、ぶつぶつと呟く。
そうだとも。キスくらい大したことは無いだろ。
ていうか、なにキスくらいで浮かれているんだ、俺は。
というより、なにキスくらいで眠れなかったんだっつーの。
眉間に皺を寄せ、無理矢理に意識から昨日のことをうち消そうとする。
あの時の希望の顔。
そっと抱きしめたときのあの表情。
驚きと、不安、そして期待が浮かんだあの瞳。
わずかに頬を赤らめ、そっと上を向いたまま、ゆっくりと目を閉じて……。
「……うわぁっ!」
再び手が口元にやってきていることに気が付き、いらだたしく頭の中に広がった世界を振り払う。そのまますべてをごまかすように、どさりと音を立てて、再び背中から地面に倒れ込んだ。そして、桜を見上げる。
桃色の花といった一般的なイメージとは違う、緑の葉でその身を纏った二本の木が、青い空の中に浮かんでるように見えた。
いったい何時から俺は彼女の事を好きになっていたんだろうか。
しかし、答えは出てこない。
俺と希望は、いつの間にか一緒にいるのが当たり前になっていたから。
今年、同じクラスになった後、俺達は自然と一緒にいるメンバーになっていた。桜坂学園に進学して以来のつきあいのある山彦や八重樫といった俺の悪友達と、希望の気があったというのもあるのだろう。
だから、昨日のような事があるまで、俺は希望の存在を特に気にしなかったんだが。
いや……、気にしようとしなかったんだけれど。
「彼女、かぁ……」
口にしても、実感など沸くはずがない。しかし、心臓の鼓動は、何故か早まる。
希望は、性格明朗、容姿端麗、勉強運動もそつなくこなす、まさにヒロインと言って良いような完璧な少女だった。社交的で誰にも分け隔てなく接するし、裏に含むところもない。
もっとも、変なところで抜けてる部分もあるのだが、それも愛嬌の内とプラスに思われるような人徳に溢れている。
だからこそなのだろう。そんな彼女には、影でささやかれている別名があった。
名付けて、”桜坂学園のプリンセス”。
「プリンセス、か」
ため息を吐く。見上げた先にある桜の枝は、相変わらず風に吹かれて揺られていた。
重なった葉から漏れる陽光をぼんやりと見上げながら、これからのことを考えてみる。
希望は知らないが、男どもの間では『星崎希望親衛隊』などという物騒な名前の組織が影で構成されているのは歴然たる事実であった。
奴らの主張はただ一つ。
”星崎希望に近づく男には死を! 抜け駆けするものにはよりいっそう悲惨な死を!”である。
そんな連中に、自分たちのお姫様がかっさらわれたと知れたら、一体どんな目に遭わされるか……。
脳裏に、油釜やらギロチンやら、ありとあらゆる拷問道具が浮かんで消える。自分のたくましすぎる想像力が恨めしかった。
頭を振って、恐ろしい光景を振り払った。無理矢理希望の顔を思い浮かる。
瞳の奥に浮かんだ少女が、俺に対して幸せそうに笑った。
……。
目を閉じ、大きく息を吐き出す。
……ばれないようにしよう。うん。それが一番。
実に前向きではない、建設的意見だった。
「よいしょっと」
妙に年寄り臭いかけ声と共に、体を起こす。
そして、もう一度空を見上げた。夏の終わりの太陽は、相変わらず燦々と陽光を大地へ降り注いでいる。
二の腕で額に浮き出ている汗を拭う。桜の幹に手をかけてゆっくりと立ち上がり、体を伸ばした。
桜木の枝葉が風で揺れた。
丘に吹く風が気持ちよかった。
丘の上から、下界に広がる街を見下ろす。
明日で、夏休みも終わる。
再び、喧噪にまみれたどたばたの学園生活が戻ってくる。
だけど、それは、多分今までとはわずかに違っていて。
一人じゃなくて二人で共有するもので。
呑気に笑う恋人の顔が思い浮かべ、苦笑する。
まったく。俺はハードボイルドが似合う男なのに。せっかくの硬派が台無しだ。
服に付いた土を両手で払い、最後にもう一度背伸びをした。
日差しを遮ってくれていた桜の枝が揺れた。
そして、俺は街の方へと下りていった。
恋は舞い散る
桜のように
水上隆蘆
桜の花が舞っていた。
つつましやかに舞っていた。
それはとても優しくて、
それでいてとても悲しくて、
どうしようもなく愛しくて。
そして、目の前には一人の女の子。
かつて知っていたはずの少女。
たぶん好きだったはずの少女。
彼女は僕に背中を向けたまま、じっと空を見上げていた。
桜の花が舞っていた。
消し去るように舞っていた。
なぜだか不安になって、僕は思わず声をかける。
その声に、少女は、不思議そうに、窺うように、ゆっくりと振りかえった。
丘裾から吹き上げる風に、長い黒髪がたなびき広がる。
舞い散る桜の花びらを纏いながら、ゆっくりと舞い踊る。
だけど、僕の目は違う物に引きつけられる。
彼女の瞳だった。
優しい瞳だった。
そして、なぜだか泣いていた。
涙が浮かぶ宝石のような二つの瞳。
薄紅色の世界。
柔らかな白の世界。
すべてを拭い去るように、ひときわ強く桜の花が舞い散った。
世界が、桜の花びらで覆われた。
§ §
九月一日、朝。
学生達が一ヶ月強の休暇を終え、二学期という名の情け容赦ない戦場へと再びその身をさらす時がやってきた。
「ふぁ……あ」
自分の住居となっているアパートの前で、学生カバンを片手に大きくあくびをする。
「ふぁぁあ……眠い」
だらけきった声でだらけきった台詞を吐きながら、だらけきった足取りでアパートの階段を下りる。
二、三度あくびをしてみるが、一向に眠気は頭から消えてくれない。降り注ぐ日差しに東の空を見あげた。残暑らしく、気温は暑い。太陽は、相変わらずいつものように同じ高さにある。
一応、気合いを入れて新学期を迎えようとした俺だが、やっぱり人の生き方なんてそう簡単に変われるものじゃないらしい。ちょっと早めに出ようとしていても、結局はいつもと同じ時間に出発である。
ため息を一つ吐いた。身に纏った白い学生服を見下ろす。
「……しっかし、”新学期”、な」
制服はあちこちに皺がより、へろへろになっている。それは、変わらない俺の性格を何より王弁に表してるように思えた。
「これ、ずっと着っぱなしだったしなぁ」
昨日まで続いた夏休み返上の強制補修を思い出す。この夏、補修のために身に纏い続けた制服を眺め、もう一度ためいきを吐いた。こんな人生では、新学期など実感が沸くはずもない。
「まあいい。さっさと学校に行こう」
諦め、俺は我が学舎へむかってぶらぶらと歩き出した。
§ §
通学路には、俺と同じように白い制服に身を包んだ生徒達が見受けられた。
「……なんだか違和感あるな、やっぱり」
ここ一ヶ月、補講で学園に出ていた風景になれてしまった俺の目には、道行く人間が皆白い制服で統一されている姿がおかしく感じられた。まあ、これが本来普通の風景なんだろうけど。
「あ、舞人くーん」
不意に、声をかけられた。
「ああ? 誰ですか、こんな朝っぱらからこの舞人様の名前を軽々しく呼びつける人間は」
不覚にも周囲に気を取られ真っ正面に注意が向いていなかった俺は、いらだたしい声を出しながら話しかけてきた主の方を向く。
「おはよう、舞人君」
と、そこには希望が夏の白い制服を着て俺の前に立っていた。
「……」
「……あれ? どうかした?」
いかにも不思議そうな顔で希望はこちらを見た。我に返り、慌てて返事をする。
「お、おうっ。おはようっ。今日はまた珍しい服着てるな」
「え? これ夏服だよ? 一学期の終わりも着ていたじゃない。覚えてないの?」
「……そうだったな」
妙ちきりんな会話だった。
と言うか、何やってるんだ俺! 一ヶ月ぶりの学生服姿くらいで動揺するなっての。
「あー、ひょっとして舞人君、もう一学期のこと忘れちゃったの? ひどいよー」
しかし目の前の女は俺の心の葛藤を気にすることもなくぷりぷりしながら非難する。
「もうってお前な、夏休みの前と後で何日あると思ってるんだ。四十日だぞ四十日! 最近の世の中は日進月歩。十年一昔が今じゃ十日一昔。四十日だとなんと四昔じゃないか。俺はそんな過去のことにはいちいち覚えていられるか」
「えー、舞人君が単に忘れっぽいだけじゃないの?」
我が恋人さまは真顔で返しやがった。なんて失敬な。
「あーあーそうですよ。どうせ私はお馬鹿な鳥頭ですよ。コーコケコー」
両手をばたばたと振って鶏の真似をしながら朝日に向かって鳴く。
「で、希望様は何でこんな場所におられるんですか? 俺達って今まで登校中に会った事って無い気がするんだけど」
「あ、うん」
急な話題転換も気にせず、希望が頷く。
「実はねー、今日は、舞人君を起こしに行こうと思ってバス停から歩いて来てる最中だったり」
「……バス停ってどっちだっけ?」
「んー、学園の向こうがわかな?」
「は? じゃあお前、わざわざ学校を通り過ぎてこっちに来たのか?」
ようやく事態を理解した俺は呆れた。
「お前ね、何でそんな訳の分からないことをしているんですか?」
「えへへー。やっぱり、舞人君と一緒に登校したいなーって思って」
目の前の彼女は屈託無くそう言った。
「……どうせ学校で会えるじゃないか」
真顔で返された理由に、恥ずかしくて思わずそっぽを向いてしまう。
「違うよー。学校で会うのと、一緒に登校するのは天と地ほどに違うんだから」
俺とは逆に、希望は照れることもなく、そんなうれし恥ずかしい台詞を口にする。
「そ、そっか?」
思わず舞い上がってしまいそうな発言をぐっとこらえつつ、平静を装って希望の方を振り返る。
「あ、でも、やっぱり迷惑だった?」
上目遣いでこちらを見る希望。
「そそ、そんなことは無いって」
思わず力一杯否定してしまった。その言葉に、ぱっと笑顔になる希望。
「えへへー。嬉しいな、そう言ってもらえると」
そのままだらしなく照れたりしている。
「……でもほら、希望もいちいち遠回りしてくるのは大変だろ」
なんだか悔しくて、一呼吸あけて心を落ち着かせる。出来る限り落ち着いた声で希望に諭した。
「うーん……そうだね。途中で入れ違えになったらこまるものね」
「そうそう。それ以前に、早起きしないといけないだろ」
「大丈夫だよー。私は舞人君じゃないんだから」
そう言って希望が笑う。
「……さりげに酷いこと言ってるだろう、希望」
憮然として言い返す。
「えー、そんなこと言ってないよ。だって事実でしょ?」
「最近は遅刻なんかしてないだろ」
「最近も何も、今日は登校初日なんだけど?」
不思議そうな視線を向けてくる希望。
「あ、ごめん」
申し訳なさそうに希望は慌てて俺に謝った。どうやら俺が(俺だけが)補講で学校に行っていたことを思いだしたらしい。
……まあ、いいけど。
「とりあえず、彼女に遠回りをさせてまで登校しようとは思わないぞ、俺は」
そう言って、別の話にすり替えてやる。
「あ、舞人君、そういうの気にするんだ。以外と古式ゆかしいんだね」
「俺は女に優しいフェミニストなの」
腕を組み、いかにも尊大な態度をとってやる。
「とりあえず、立ち話もあれだ。行きながら話すぞ」
時間を確認し、希望に提案する。なんだかんだ時間が経っていた。余裕がない訳じゃあないが、のんびりするにはいささかおしている時間だ。
「うん♪ じゃ、一緒に行こうっ」
嬉しそうに頷くと、希望は俺の隣に並んで歩き出した。
肩を並べ歩き出して十数分後。俺の目に、校舎と、それを囲むフェンス柵が見えてきた。もうじき到着というわけだ。
「でねー、昨日バイト先で刑事さんっぽい人がやってきて……」
道を行く俺の隣では、希望が終始楽しそうに喋っている。
「そーんなお客さんが来るなんてさすがの私も思わなかったんだよ。だからね、あの時は大変だったんだからー」
学校までの道程、満面の笑顔と共に希望は、昨日自分が経験した事を話し続けた。
それは、端で聞いてる分には別にたいしたことのない内容でしかない。
だけども、俺にとっては大きな意味を持っていた。
ただ、希望が話していると言うことが重要だった。
そう……。
ただ俺にとって。
希望が、俺と、話をしていると言うことだけが、重要だった。
「そ、それは大変だったんですねぇ……あははー」
限りなくC調に近いノリで希望の話を聞き流しながら、俺は恐る恐る周囲を見回した。
辺りには、敵意むき出しの男子生徒どもが半径5メートルほどの円形の人柵を作り、殺意に満ちたオーラを放ちながら無言で俺達を取り囲んでいた。
その数ざっと二〇人。
明らかに、異様な光景だった。
きゃいきゃいかしましい希望と、へらへらしながら歩く俺。そして、俺達につかず離れず、ただ無言で付いてくる人だかり(すべて男)。
そいつらが誰かとは考えなかった。俺には、不幸なことに心当たりがある。
……プリンセス星崎のナイト達なんだろうな、多分。一〇〇%の確率で。
ぎろりっ。
嫉妬に燃える男達からの視線が突き刺さる。
「ひぃっ」
そのあまりのプレッシャーに悲鳴を漏らしかかる。ここにいたって俺は、ようやく今まで希望が誰からも告白されたことの無い理由を身をもって知った。
「……どうしたの舞人君?」
俺の姿を見て不思議そうに顔を覗きこんでくる星崎希望さん。
「あ、いや、その、別にたいしたことではないんですよ、星崎さん」
あははははー、と硬派な俺に合わないようなフレンドリカルな表情を希望に返す。
しかし、希望と無関係を装うとする俺の必死な擬態も全く意味が無く、ますますその視線による圧力は強められていく。
いつの間にやら、俺達は校門の傍までたどり着いていた。そして、俺を取り囲んでいる男の数は三〇人ほどに膨れ上がっていた。
(正気かよ……)
俺は星崎希望親衛隊の結束力と行動力を楽観視していた自らの迂闊さを呪った。
このままでは、冗談ではなく毒ガス室に送り込まれそうな雰囲気だ。
救いを求めて周囲の一般生徒へ視線を向けるものの、道行くみなさまは皆、この異様な雰囲気に、あるものは道を譲り、またあるものはそそくさと学校へと逃げ込んでいく。
「しょ、所詮他人は他人なのか……」
孤立無援。四面楚歌。無情な世の中に涙する。
「舞人君、何ぶつぶつ言ってるの?」
にもかかわらず、呑気に聞いてくる女、約一名。
回り見ろ、回り! そう叫ぼうとした俺は、親衛隊のみなさまからの一層強力な視線に射すくめられ、口まででかかった言葉をかろうじて飲み込む。
「どうしたのー?」
完全無垢な表情で、小首を傾げ聞いてくる我が彼女さま。
「……何でもないですよ? 気にしないで下さいませ。あははー」
引きつりながら答える。まさに、強盗に背中から包丁を突きつけられながら、こいつは俺の友人で……と部外者にごまかす男の心境だった。
とりあえず、ここはさっさと希望と別れて登校してしまおう。このまま一緒にいたら親衛隊の皆様方は、暖かく、すばらしい拷問の数々を私に対して施しになられるに違いありません。
素早く頭の中で自己保身的思考を巡らすと、俺は改めて希望に向き直った。
「あの、星崎さん? そろそろ学校も近いことですし、ここら辺で先に行ってみてはいかがでしょうか?」
声質は裏返る寸前だった。
「その、私、実は今朝の朝飯を食いそびれておりましてですね。御近所のコンビニでちょっと腹の足しになる食料を調達でもしてきたいなーと思っておりました次第なのでございますですよ。ですから私のような下賤の者など放っておいて一刻も早く我らが学舎に向かわれては?」
額に汗を浮かべながら、俺はそう言ってみる。
その言葉に、親衛隊は俺の意図を悟ったらしい。周囲からの圧力がわずかにゆるんだ。
心の汗を架空のハンカチで拭い一息つく。ふう、これで助かった。
「え? そうなんだ。だったら一緒に行こっか、舞人君」
しかし、プリンセス星崎は、優しくそう申された。
ぎろりっ!
周囲の気温が再び低下した。一度減圧されていたはずの圧力も跳ね上がる。
「いやあ、ほら。姫のお手を取らせるまでありません。ここはこの桜井舞人を気にすることなく、ささっと聖なる学舎にお向かい下されるのがよろしいと思われますですよ?」
慌てて希望の提案を拒否する。
収まったはずの心の汗どころか、リアルな汗すら額から流れてくる。
危機は一髪ではなかった。
と言うより未だ危機そのもの。
星崎希望親衛隊からの無言にして暴虐な圧力は俺を捕らえて離してくれない。
既に、校門までは後数メートルほど。
後たった数メートル。
ほんの数メートル。
(なのに、何でここまできてこんな目に遭わなければならないんだぁ!)
冷や汗三斗の心境だった。
「……そんなに私を先に行かせたいの、舞人君?」
YesYesYes!
そう心の声で叫んでみても、熱い視線を向けては見ても、哀しいかな、目の前のプリンセスには通じなかった。
……というより、おかんむりになっていた。
「ちょっと待て。お前何怒ってるんだよ」
「怒ってなんかないもん」
「いや、怒ってるだろ、絶対」
「絶対怒ってないー」
そう言いながら、真っ赤な顔で俺をにらむ。
そして。
「今日は一緒に学校に行こうって言ってくれたのに、どうして最後になってそんなこと言うの?」
決定的な一言。
そんでもって、今にも泣き出しそうな目をするプリンセス。
だから、そんなこと言われたら。
ギロギロッ!!
周囲から注がれる殺気が、最高潮に突入した。
(嫌われようが仲良くしようが一緒なのかよ)
もはや泣き出したい心境だった。
そこらを歩いていた犬猫が異常な雰囲気に姿を消し、慌てて鳥が舞い上がる。無関係を装っいながら事の成り行きを見ていた一般生徒も、すべて蜘蛛の子を散らすように校舎へと逃げ込んでいく。
「それに、昨日まで名前で呼んでくれてたのに、今朝は名字で呼ぶなんて許せない」
希望は周囲の様子に全く気が付くことなく俺に詰め寄った。
「いや、これは決して他意があるわけじゃないんでありましてですね……」
必死に弁明を行うも、俺の言葉は恋人には全く通じていなかった。希望の顔の向こうに浮かぶ親衛隊からの視線が恐怖というレベルを超えた冷たさで俺の心臓に突き刺さる。
「舞人君、私の話ちゃんと聞いてるの!?」
決然とそう言って、我が恋人は両手で俺の頭をつかむと、無理矢理正面を向けさせた。
「……ねえ、どうして私の目を見て話してくれないの!?」
それは、お前の親衛隊が怖いから、とはさすがに言えず目線だけを逸らしてごにょごにょと声にならない言い訳を口にした。
「……そうなんだ」
そして、希望はそっと手を俺の頬から離した。そのまま、顔を俺から逸らすと消え入りそうな声で言った。
「……やっぱり、舞人君は私と居ても楽しくないのかな……?」
瞳にはわずかな涙が浮かんでいる。
「そそそそそんな事無いって! 楽しいです、はいっ」
慌てて希望の言葉を否定する。
「本当?」
「ほ、本当だって!」
けれども、希望の哀しそうな顔は変わることもなく。
「でも、今日はなんだかずっと上の空だし。さっきだって私じゃなくて、まるで他の誰かを見ていたみたいだし」
や、確かに見てましたけど。見てましたけどぉ。
「やっぱり、私なんかじゃ舞人君に釣り合いがとれないのかなって」
そのままうつむいて、か細い声を出す。
「そう思ったら、私……」
そして、じわりと涙が溢れそうになって──
「だから好きだって言ってるだろうがっ! 勝手に一人で話を進めるなっ!」
思わず怒鳴りつけてしまった。
その台詞に、希望が顔を上げた。
ちょっと、目の端に涙が浮かびかかっていた。
「……本当?」
「……本当だ」
憮然として諾の言葉を口にする。
時間が止まった。
そして。
「きゃー♪」
希望はそのまま俺に飛びついてきた。
「ちょ、ちょっと待て。分かった。ていうか、理解した。納得した。だからせめてこういうのは学校以外でやってくれ」
そう言って、俺の腕の中で照れっぱなしの希望を引き離す。
希望は名残惜しそうにしていたが、渋々離れてくれた。
まったく……すぐにコロコロ気持ちが変わるんだから。
苦笑する。
そして、顔を上げた。
親衛隊の皆さんと目が合った。
……。
…………。
「あ、あはははは」
体中から血が引いた。
今回は、擬音もない。
ただ、殺気のボルテージだけが二段階上がった状態でその場を支配していた。
「ひ、ひぃっ!?」
一瞬で現実に引き戻され、カエルが潰れたような情けない声を上げた。
じりっ。
親衛隊の皆さんが、まるで以前から取り決めがあったかのように整然とした歩調でこちらに対して一歩を踏み出した。
じりっ……。
再び、整然とした二歩目が踏み出された。
じりっ……。
いつのまにか、周囲を取り囲むヒットマンとの距離が半分に縮まっていた。
「……どうしたの、舞人君。さっきから黙ったり悲鳴を上げたり」
「き、気にするな。ちょっと今日の俺は持病の癪が再発してるだけだ。きぃっ。きぃっ」
むりやり病人を装い、事態に全く気が付いていない希望をごまかす。
「そんな、駄目だよ。ひょっとしたら命に関わるような病気かも知れないじゃない! ね、一緒に行ってあげるから今から病院に行こう?」
真剣な表情になると、希望はそのまま俺に抱きつき必死でせがんできた。いつの間にか引っ込んでいたはずの涙が、再び瞳に浮び、今にもこぼれ落ちそうになっている。
「ちょ、ちょっと待て、希望、こんな公衆の面前で抱きつくなっ」
慌てて引き剥がそうとするが、しかし希望は首を左右に振りながら、頑強に抵抗してくる。
俺は、希望の肩越しに、親衛隊のみなさまの顔を見上げた。
半殺しどころか、全殺しでも許してくれそうにない雰囲気だった。
「北海道のお母さん……僕は今日、この場所で死んじゃうかも知れません……その時はどうかこの不幸な親不孝な息子のことをお許し下さい……」
俺は遥か北の大地に暮らす愛しいやくざな母親の名前を唱えた。もちろん、そんなものは意味もないことでしかないのがわかっていた。
§ §
朝のHRが始まる数分前の教室だった。
「……死ぬかと思った……」
おそらく、考えられる限りの速度で自分の教室へと転がり込んだ俺は、そのまま自分の席に倒れ込んだ。そして、これ以上ないほどだらしなくその場で脱力する。
突っ伏したまま、教室の外を見た。
未だ廊下には呪詛が込められた視線の大軍が浮遊していた。
さすがにというか、親衛隊の面々も、違うクラスにまでは押し入ってこないのが救いであった。まあ、生活教官にして、この学校で一番熱血馬鹿な鬼浅間の教室で騒ぎを起こすほどには馬鹿ではないと言うことらしい。俺はこの学校に入学して初めて、自らの担任に感謝した。
そう。予鈴の鐘が鳴った隙をついて、俺と希望はあの場を脱出したのである。
正直、一体どこをどうやってここまで逃げてきたのか詳しい記憶がないが、それについてはわざわざ思い出したくもない。ただ、こうして生きて教室にいるという事実だけで十分だった。
視線を逆に向ける。
希望は、クラスの女子たちに取り囲まれ、なにやらきゃいきゃいと話していた。時々、こっちをちらちらと見ているから、多分俺のことを話してるんだろう。
「何というか、お前、今日の登校は凄かったじゃないか」
頭の上から聞き知った声を掛けられる。男の声だった。そちらの方を見上げる。
制服を適度に着崩した爽やか君だった。俺の数少ない親友兼悪友の相楽山彦だ。
「なんだよ山彦。おまえ、見ていたのかよ」
「ああ、一部始終をな」
山彦は腰に手をやり、にやりと笑った。
「まさかなあ、……お前があの星崎さんと一緒にあんな派手な登校をしてくるとは思わなかったぞ」
「……見ていたんなら助けろよ」
寿命が10年単位で縮まった悪夢の早朝事件を思い、愚痴とも非難ともとれる台詞を口にする。
「だってなあ。あの状態で中に入っていたら俺まで巻き添えを食らうだろ?」
親友と思っていた男はそう言い切った。畜生、チキンなやつめ。
「ま、女の子を迫り来る障害から守るのは男の勤めということで納得しろ」
「アレは明らかに俺の方を狙っていたぞ」
つい数分前まで自らの身の上におかれていた惨状を思い出し、抗議する。
「何言ってるんだ。星崎さんとつき合うんだったらああなるのは半ば予想済みだったんだろ?」
何を言っているのか、と言う表情で山彦が答えた。
「……まあ、覚悟していなかったわけじゃないけど」
弱々しく答える。いくら色恋沙汰は当人達にとって盲目とはいえ、さすがにアレは限度を超えている。
「しかし、あれがこれから卒業するまで続くのかよ……」
「大丈夫だ。あれだけ派手につき合ってることを告知したわけだからな」
妙に自信たっぷりな顔で山彦が言った。
「ま、認知される──というか、諦められるまで半年くらいだろう。来年からは普通の学園生活が送れるようになるさ」
「……一応聞く。根拠はあるんだろうな?」
「人の噂は七五日って言うだろ。星崎さんと、お前の分を合わせたら二人で一五〇日。だいたい半年じゃないか」
「さいですか……」
それ以上反論する気力もなく、俺は再び机の上に突っ伏した。
「けど、ずいぶんと変わったよな、お前」
「何がだよ」
やさぐれた反動から、棘がある声で聞く。
「ああ。今まで恋愛に興味なんか全くなかったくせに、ここに来てようやく人並みの人生を謳歌するようになったんだなあと思ってな」
ああ、そういうことか。
「……そうかもな」
ぶっきらぼう五割、無気力五割の声で肯定する。
なんというか、女とつき合う気なんか起こらなかったからなあ、今まで。
「ま、これまでは単に俺に見合う対象がいなかっただけだったんだ」
そううそぶくことにする。
「ふーん。……で」
「……で?」
おっくうに返事をする。
「どこまで行ったんだ? 星崎さんと」
「ぶはぁ!?」
思わず吹き出す。
「お、お前、何そんな下世話な事聞いてるんだよ。そんな、まだ、別にたいしたことはしちゃいねぇし」
いや、キスはしたが。ていうか、キスしちゃったけど。
「……何真っ赤になってるんだ」
「真っ赤って、お前がいきなりそんな恥ずかしいことを聞いてくるからだろうが!」
思わず詰め寄ってしまう。
「いや、どこにデート行ったのかとか、何かプレゼントでも買って送ったとかなんだけど?」
山彦の何気ない言葉に絶句した。
「そ、そうなの?」
「どうしたんだ、舞人。それ以上のことがあったのか?」
山彦は真顔で聞いてきた。
「あー、その……」
「その?」
キスとかは、関係ないんだよな、今の話には……。
「……今の所、どこにも行っていない」
何も悪くはないのだが、何故か消え入りそうな声で答えてしまった。
「そっか」
山彦は純粋に驚いた表情を浮かべた。どうやら本当に他意はないらしい。
「まあ、告白したのが、夏休みが終わる二日前だったし、補修だなんだでそれからはどこにも行けなかったからな……」
言い訳じみた台詞を口にする。
「だったら仕方ないな」
残念そうに山彦が言った。しかし、次の瞬間にはフレンドシップに溢れた顔になると、俺に優しく話しかける。
「ま、これからってやつだな。頑張れよ、舞人」
そう言って山彦は親指を立ててにやりと笑った。
「どうだ、恋っていいもんだろ?」
「……そうだな」
俺は殊勝な顔で頷いた。
散々恋愛否定派として言われ続けた俺が、恋人か。
溢れんばかりの才あるハードボイルドな俺とはいえ、たまには市井の一般人と同じ事をしても良いだろう。まあ、アレだ。人間、いつまでも同じじゃないと言うことだ。うん。
「とはいえ、恋愛ってやつはいつも突発的なイベントが一杯だからな。注意しておけよ、舞人」
「注意って何に注意するんだよ」
「たとえば、別れるとか」
「ちょ、ちょっと待て! 俺達に限ってそんなことがあるはずないだろうが」
何をいきなり言い出すんだ、こいつは。縁起でもない。
しかし山彦は俺の言葉に苦笑いを浮かべただけだった。
「若いって、良いよな」
「うううううるさい! お前だって同じ年だろうが」
山彦は、落ち着け、とばかりに両手を前に出して俺を制する。
「まあ聞け。確かに別れるというのはあくまで仮の話だ。だけどな、それに類することが起こるかも知れない可能性がゼロという訳じゃないだろう。原因が二人じゃない場合だってあるだろうし、単ある勘違いって時もある」
山彦はそう話しだした。
「そんな時こそ、思い出すんだ。かつて出会ったときに思ったことを。互いがなんと言って愛を誓い合ったかを。そうすれば、忘れそうになっていちゃ絆を再び取り戻すこともできる」
芝居がかった言い回しだったが、山彦の目は真剣だった。
だからこそ、俺はまじめな顔で答えた。
「山彦。お前、いいこと言うな」
「何言っているんだ、舞人。俺は愛の伝道師だぞ」
「そうか。そうだったな。すまん」
素直に謝る。
「よし。まあ、何か気になることがあったときは遠慮なく聞いてくれ。適当なデートコースの選択とか、ムードの作り方とか、俺が出来ることは教えてやるからな」
「ああ、何かあったときは真っ先にお前に聞いてやるから安心しろ」
俺の言葉に、山彦が嬉しそうに笑った。
スピーカーから機械音で構築されたチャイムが鳴り、登校時間の終了を告げる。
「お、鬼浅間が来たみたいだな。じゃあ、俺は席に戻るから」
見ると、廊下を歩く我らが筋肉馬鹿担任様の姿があった。山彦の台詞に頷く。
席へ向かう前に、山彦は軽く手をあげた。
俺も小さく手をあげ返し、にやりと笑った。
がらがらがら、と言う音を立て、教室の扉が開けられた。
「よーし。今からHRを始めるぞ」
鬼浅間が体育教師特有の図太い声で号令をかける。
「きりーつ、れい」
いつもの学校のいつもの風景。その始まり。
再び席に座り込んだ生徒を前に、始業式の予定と注意事項をしゃべり出す鬼浅間。
そんな中、俺は心底良い友人に巡り会えたことを感謝した。
§ §
きーんこーん、かーんこーん。
チャイムが鳴った。
「それでは帰りのHRはこれで終了する。各自、明日から授業が始まることを忘れず、新たな気持ちで学園生活を送るように」
起立、礼。ありがたいお言葉を残して学級担任の鬼浅間が教室から退出する。と同時に、クラス中が喧噪へと突入した。
ま、仕方ないよな。新学期が始まると必ず行われる校長の訓辞と、その後のHRなんぞ、所詮意味無いお約束。今更決まり切ったお小言(二学期はスポーツ、勉学の秋だ。各自、一刻も早く夏休みのようなだらけた気持ちを切り替えて……云々)なんぞ聞かされても、身も心も未だ夏休み延長期間中の学生には意味がないんだから。ま、そんなことは向こうも折り込み済みなんだろうけど。
「さてと」
今日は始業式らしく、授業も何にも無い。筆記用具の他には何にも入っていないカバンを前に、これからの予定を考える。
「おう、舞人。今日は帰り、どうするんだ?」
俺とは違い、カバンを片手に帰り支度をしていた山彦が声をかけてきた。
「どうするんだ、だと? 愚問だな。実は全く決まっていない」
「はあ?」
呆れた声を出す山彦。
「まあ、アレだ。とりあえず商店街でも回ってぶらぶらしてこようかと思っているぞ」
どうせ家に帰ってもやることもないし。
「そうだ、山彦。お前も一緒に来るか?」
特に目的があるわけではない。だったら、連れは多いに越したことはない。それだけ気も紛れるからな。
「だったら星崎さん誘ってやれよ」
「はぁ?」
友人の口から出た意見に意表をつかれた。
「ほら。彼女、なんだか誰かさんを待ってるっぽいぞ」
「……あの馬鹿」
山彦の指さす方には希望が八重樫と何か話し込んでいた。
しかし、ポニーテールの主は時折ちらちらとこちらを窺うようにのぞき見てくる。傍目からでもバレバレだ。
舌打ちしながら立ち上がる。
「早速借りをつくっちまったな」
「どうせこの先いくらでも返す機会はあるだろ。今すぐ返さなくてもいいぞ、舞人」
そう言って山彦はにやりと笑う。本当にこいつは良いやつだ。
「わかった。じゃあ、今日はお前の提案に従うことにする」
「おう、さっさと行ってやれ。女の子を待たせるのは男子の沽券に関わる」
「同感だ」
山彦の言葉に頷き、悠然と、でも実際は緊張しながら、俺は希望の所に向かう。
「希望、今日はどうする?」
八重樫と話し込んでいたふりをしている彼女の元に行き、訊ねた。
「う、うん。私は特にこれと言った用事はないよ」
頬を染めながら嬉々として希望が答える。
「そっか」
その表情に飲み込まれないように、とりあえずそれだけを口にする。
「わるいな八重樫。こいつ借りてくぞ」
親指で希望を指し示しながら言う。
八重樫は『仕方ない』、と言った表情を浮かべると、無言で手を振って許諾の意を示した。
「じゃ、じゃあ、私、今日は帰るね、八重ちゃん」
すでに抱えていたカバンを両手で持ち直し、希望は勢い良く立ち上がった。
「一緒に帰ろっか、舞人君」
そう言うと希望は、スキップとも競歩とも言えない微妙な歩き方で廊下へと向かった。俺も慌ててその後を追った。
「あ、そうだ。裏口から出ていった方が良いぞ、舞人」
教室の外に出る直前、山彦から声をかけられた。
「何故だ、山彦」
「正面は、今朝お前を取り囲んでいた連中が張ってるから」
「……忠告、感謝する」
今朝とおなじ(あるいはそれ以上の)出来事など再び経験したくなかった。
「おう、しっかりやってこい」
「任せておけって」
清々しく笑った山彦に気障な笑みを返す。
「舞人くーん。早く行こうよー」
廊下から首だけ出して催促する希望。
「わかってるからそう急かすなって!」
俺は山彦と八重樫に手を振って、廊下で待つ希望の元に向かった。
「ヤマー、あんたも暇人だね」
無気力そうな手の振り方で二人を追い出したつばさが、怠惰な視線を山彦に向けながら言った。
「俺は暇人じゃなくていい人なんだけどな」
廊下を行く後ろ姿を見送りながら、山彦が言った。
「ふーん」
つばさは廊下の先に消える男女を一瞥すると、そのままカバンを担いで正面門へと向かった。
学校という牢獄から脱出した俺達は、桜坂市の商店街──さくら通りを肩を並べて歩くことに成功していた。
「うきうきしてるね、舞人君」
「おう、俺はいつもうきうきだぞ」
俺は笑顔全開陽気ルンルンで答える。そりゃあ山彦の忠告を生かし、恐るべき親衛隊の追及から逃げ出すことに成功したのだ。浮かれ気分になるのも当然というものである。
「で、舞人君。今日はどこに行くの?」
「そうだなあ」
希望に言われ、これからの予定を考えてみる。希望と一緒に学校を出てきたものの、別にどこかの店に行くって決めてるわけでもない。
こういう場合、今までだとゲームセンターにでも突入し、血沸き肉踊る魂の格闘ゲーム筐体でコンピューターと熱いバトルをするのではあるが……彼女連れで行くような場所じゃないだろう。
となると……。
ぐぅぅ。
腹の虫が鳴る。
「わ、私じゃないよっ?」
慌てて両手を激しく振りごまかす希望嬢。その様子から、さっきの音の出所は一目瞭然だ。
「あー、そうだな。俺、腹減ったし……どっかでなにか食っていくか」
何食わぬ顔で希望に尋ねてやる。
「う、うん。そうだね。もうお昼過ぎだし」
赤くなった顔をごまかすように何度も頷く希望。ううん、愛いやつじゃ。
「しかし……どこにするかな」
ちょっと考え込む。
飯を食うという大目標は決まったものの、実際に何を食うかという具体的な内容は未だ決まっていない。
「希望は何か希望はあるか?」
「私は……どこでも良いよ」
「うーむ」
希望が俺に合わせてくれようとしいてるのは嬉しいのだが、如何せん俺の脳味噌には洒落た外食コースがインプットされていない。安さ一番まずさ上等の店ならおそらくこの街一番のデータベースを誇っている自信があるんだけど。
「ぬうう……」
腕を組み考えても何も思い浮かばない。
希望がひどく期待しながらじっと俺の顔を見ていた。
「……クレープにでもするか?」
希望の好物、と言うより好きな間食の名を言ってみる。
「クレープ!」
まるで魔法の言葉を聞いたかように彼女の表情がぱっと明るくなった。
「まあ、昼飯にふさわしくないけど、歩きながらでも食えるしな」
「うんっ。大賛成っ!」
そう言って大喜びで駆け出そうとする。
「じゃ、早く買いに行こうっ!」
「ちょっと待てって、希望」
慌てて声を掛けたものの、彼女は既にだいぶ先まで進んでいた。
「まったく、あの女は……」
げに恐ろしきは食い物にかける女の執念だった。
希望を追いかけ、商店街の端にあるクレープ屋へと向かう。
途中、ファーストフードショップ”バクロワルド”が目に留まる。
「……いや、やめよう。あそこは鬼門だ」
行ってみようか、などという発想を一瞬でも考えてしまったことを後悔し、頭の中から振り払う。知り合いがバイトをしている店など、この間の騒動でこりごりだ。
「何が鬼門なんですか、せんぱい?」
「うひょう!?」
背後から急に声をかけられ、みっともない声を出す。
「……何用だ、雪村」
怒気を含ませて声の主に振り返った。
きゃんきゃんと啼く子犬のような印象の少女が立っていた。セミロングの髪を片方だけ縛った左右非対称のヘアスタイルである。ちなみに、桜坂学園の制服を身に纏っている。なお、学園を表すネクタイの色は翠──一年だ。つまり、俺の一つ下ということになる。
「いえいえ大したことじゃありません。勤労少女の雪村さんは学校が終わった今日も今日とて清く正しくアルバイト先を訪ね、こうして学校が終わってすぐに仕事先であるこのお店にやってきたところ、たまたませんぱいのお姿を発見しましたもので、これは年長者に対する礼を尽くさねばならないと思い立ち、早速親鳥を見つけた小鳥よろしくそのそばまで舞い戻ってきただけですから」
そう言ってにっこり。我が幼なじみのマシンガントークの切れ味は今日もいささかも衰えていないらしい。
「あ、ちなみにお昼はまだです。本当ならバイト先の栄養偏った経済的とは言い難いセットメニューをバイト特権として安く調達する予定だったんですが、一人寂しくこそこそと食べるよりは知ってる人を巻き込んだ方がちょっとは罪悪感も安らいだりすると思いましたので、こうやってお声をかけた次第です。ちなみに、お値段は本日サービスで社員割引充当ですよ?」
そういって雪村は、にこにこと俺の顔を見る。
「あのな雪村。悪いが今日は俺は先客があってだな、お前につき合うわけにはいかんのだ」
そう、いかにも残念な声で答えてやる。
「え、そうなんですか? でもでもっ、いかにも私は安いパンとか堅い肉とか塩辛いだけのポテトとか、健康なんかこれっぽっちも考えていないジャンクフードを腹一杯詰め込みたいなーって顔していましたよ?」
「いや、確かにさっきまではそんな事を思っていた気もするが、現在はそんなことを考えていたりしない。だから残念だが今回はパスだ」
「……はあ、そうなんですか。で、先客って一体誰なんですか?」
そう言って雪村は不思議そうに俺の顔をのぞき込んだ。
「ああ、それは」
雪村は、じっと俺の顔を見つめている。
「……クラスメートだな」
思わず言葉を選んで答えた。
「はあ、そうなんですか。お友達さんなんですね」
「そ、そういうことになるかな? あっはっは」
何故かごまかし笑いをしてしまう俺。
「じゃあ、俺そろそろ行くから。待たせてるしな」
「はーい。それではせんぱい、残念ながら今日は雪村は大人しく勤労に勤しんでいます。またのちほどー」
雪村は再びにっこりと笑うと、学生服をはためかしながら颯爽とクロワルドの中へ入っていった。
「あいつも今時健気に苦学生か。まじめだねえ」
親に食わしてもらっているどころか、進学を名目に北海道から関東へ一人出てきている上、バイトなどやってもいないという俺は自分のことを棚上げしながら感心した。
「ふーん。あの娘のことずいぶん詳しいんだ、舞人君」
「ああ、そりゃああいつとはつきあい長いし」
「そうなんだー。どうつきあい長いの?」
「そりゃ、なんせあいつと俺とは腐れ縁……って、何で俺はこんな当たり前のこと今更自問自答してるんだ?」
首をひねって考える。
「……誰か忘れてない?」
「おお! そう言えば誰か忘れているような……って、の、希望?!」
振り返ったら、そこには両手にクレープを抱えた恋人が、にっこり笑って立っていた。
「あ、俺の分も買ってきてくれたのか。悪いなー」
そう言って希望の手に握られたクレープを取ろうと手を伸ばす。
ぎゅっ!
「にゅおぉ!」
いきなり足の先に激痛が走った。たまらず悲鳴を上げる。
見ると、俺の足は目の前の女によってしっかりと踏みつけられていた。
「どうかしたの、舞人君?」
希望が、声色を一つも変えずににっこり笑い続けていた。
「どうしたもこうしたも、おまえ俺の足を踏んだろうがっ!」
しかし、俺の怒声を気にすることなくいつもの笑顔で平然と答える希望。
「あ、そうなんだ。ごめんねー」
見下ろしながらも浮かべられた笑顔が逆に怖い。
「……ひょ、ひょっとしいて怒っておられますか、希望様?」
「わたし? 私は怒ってないよ。うん、あり得ないあり得ない」
ぱくぱくと、両手に持ったクレープを代わる代わるぱくつきながら、いかにも心外だという台詞を返してくる希望嬢。
「それとも何? まさか私が舞人君の浮気現場を最初から最後まで見ていて、それで怒ってるとか言い出したりしないよね?」
ぎろり。
「いえっ、……特に何もありませんっ」
氷点下の冷気を纏った追及に、はじかれたように垂直不動の姿勢をとって答える。
「ふーん。で、だれなの、舞人君。ずいぶん可愛いかったよね」
そう言った、希望の笑った顔の中で、目だけが相変わらず笑っていない。
「……知り合いだよ。さっき言っただろ。腐れ縁というか、そんな仲」
「舞人君、去年引っ越してきたばっかりなのにどうして腐れ縁なの?」
ため息を付く。あくまでも追及をやめてはくれないようだ。
「あのな、あいつは雪村小町といって、本当に俺と同じ雫内の出身なんだよ。だから、昔から知ってるんだ」
「えっ。あの子、北海道の子なの?」
俺の言葉に、希望は目を大きく見開いた。どうやら本当に驚いたらしい。
「ああ。なんでも面白そうだからってだけでこっちの学校受験して、何の間違いか受かったんだと。まあ、最近の若者にありがちな刹那人間のモデルケースみたいなやつだ」
「そうなんだ……」
渋々相づちを打つ希望。
「あいつんとこのおばさんとも顔見知りだしさ。こっちに来てるのに邪険にするわけにもいけないじゃん。おかげで一人、遠く離れたこの街で人生をエンジョイするはずだったのに、やれなんだやれかんだとかまってやらないといけないの。いい迷惑だっつーの」
もうこの場にいない幼なじみに対し悪態を付く。
「それは……大変だね、舞人君」
「ま、俺の方もいざとなったらあいつ経由で話伝えてもらうっていうメリットもあるからな。要らないことまでつたわっちまうデメリットの方が多い気もするが」
雪村の勤め先を見ながら話す。
「ところで、俺は何を食おう」
ぐぅぅー、という音をたて、俺の腹がうめいた。文句を付ける場所を撫でてなだめる。
「あ、そっ、そうだよね」
慌てながら希望が言った。片手を差し出そうとして、固まる。
「……あの、この半分食べる?」
希望がおずおずと両手に持ったクレープを差し出してきた。
「確かに半分だな」
差し出された二つのクレープを眺めて答える。どちらも半分まで処理されており、見事に二分の一の大きさになっている。
「……」
「……」
無言でお互い見つめ合う。
「まあいい、スパゲッティでも食う事にしよう」
そう言って俺は来た道を戻ろうと振り返った。
「ま、舞人君、許してよー」
希望は今にも鳴きだしそうな声を上げた。
「わかったわかった。今回は許してやる」
そして、鷹揚に頷き、食べかけのクレープを受け取ってやったのだった。
なお、それが間接キスだと気付くのは、全部食べ終わった後だった。
§ §
桜の花が舞っていた。
つつましやかに舞っていた。
それはとても優しくて、
それでいてとても悲しくて、
どうしようもなく愛しくて。
そして、目の前には一人の女の子。
かつて知っていたはずの少女。
たぶん好きだったはずの少女。
彼女は僕に背中を向けたまま、じっと空を見上げていた。
桜の花が舞っていた。
消し去るように舞っていた。
なぜだか不安になって、僕は思わず声をかける。
その声に、少女は、不思議そうに、窺うように、ゆっくりと振りかえった。
丘裾から吹き上げる風に、長い黒髪がたなびき広がる。
舞い散る桜の花びらを纏いながら、ゆっくりと舞い踊る。
だけど、僕の目は違う物に引きつけられる。
彼女の瞳だった。
優しい瞳だった。
そして、なぜだか泣いていた。
涙が浮かぶ宝石のような二つの瞳。
薄紅色の世界。
柔らかな白の世界。
すべてを拭い去るように、ひときわ強く桜の花が舞い散った。
世界が、桜の花びらで覆われた。
§ §
朝。
なぜだか早くに目が覚めた。
窓の外からはちちちちち、という小鳥の鳴き声が聞こえてくる。か細い光がカーテンの隙間から漏れていた。
ベッド脇に、半ば放り出されるようにして置かれた時計を見る。目覚ましをかけていた時間より二時間も早い時刻だった。
ぼうっとしたまま、天井を見上げてみる。
体の芯がだるかった。
頭の奥が眠たかった。
それでも、俺は再び布団にくるまる気分にはなれなかった。
なぜだか残ったあの感覚。
初めて見た夢のはずだった。
それでも、何故か見覚えのある光景だった。
いつか、何処かで感じたことのあるイメージがあった。
ベッドから無理矢理に体を起こす。
特に理由があるわけじゃない。
ただ何となく、もう一度眠りにつきたくは無かった。
§ §
アパートから出ると、東の空にはきらきらとした太陽が登っていた。
「うう……眠い」
昼間と比べると貧弱な光量を投げかける太陽を手の平をひさしにして、学園の方を眺めてみる。案の定というか、こんな時間では未だ誰も登校している姿は見あたらない。
「学校になんか行きたく無いなあ……」
思わず呟いてしまう。登校二日目にしてこの有様。さすがは俺。
「あれ? どうしたのお兄ちゃん、こんなに早く」
聞き知った声に呼ばれて後ろを振り返る。そこにはピンクのリボンのよく似合う、ショートカットの女の子が制服姿で立っていた。
「ああ、青葉ちゃんか。おはよう」
「おはよう、お兄ちゃん」
笑顔を浮かべながら俺に挨拶を返してくる。
彼女は、俺と家族ぐるみで(と言っても、俺は一人暮らしだけど)お付き合いをしている同じアパートのお隣さんで、中学生にもかかわらず、森家の家事一切を取り仕切っているというけなげなお嬢さんである。
「んー。ほら、今日から授業が始まるからね」
そう言って、ごまかすように目の前の少女に答える。
「あ、わかるよその気持ち。こう、新学期が始まる新しい日を迎えると、妙にうきうきしてくるんだよねー」
にこにこしながら青葉ちゃんは答える。
「そっか。それでお兄ちゃんもこんな朝早くに起きてたんだね」
「そ、そうかもね」
手を打って納得する姿に頷いてごまかす。
「あ、じゃあ、一緒に登校しようか」
そう提案する。
「うんっ」
無邪気な笑顔を浮かべて青葉ちゃんが頷いた。
§ §
久しぶりに青葉ちゃんと登校することになった俺は、道すがら最近のことを話しながら歩く。
「青葉ちゃんは夏休みの宿題、ちゃんとしたー?」
「そんなの当たり前だよー……って言っても、半分はかぐらちゃんと一緒にやったんだけどね」
そう言って青葉ちゃんは恥ずかしそうに小舌を出す。
「うんうん。麗しい友情だなあ。女の子ってこういうときうらやましいよ」
「お兄ちゃんはしないの?」
不思議そうに俺の顔を見上げる青葉ちゃん。
「俺達の場合は、一問100円とかきっちりと交換レートが決まっていてね。それが払えなければ答えを見せてはくれないのさ。世知辛いだろ?」
「ううん。確かにそれは世知辛いことだね。ちょっとてやんでぃだよ」
哀しそうに頷く青葉ちゃん。まあ、進学校に通うものの容赦ない弱肉強食の世界を教えるのも社会勉強だ。
「ところで青葉ちゃんは夢占いとかするのかな?」
いい加減話のネタも切れてきたこともあり、俺はふっと聞いてみた。
「え? ちょっとはするけど。何かあったの、お兄ちゃん?」
ちょっと驚きながら青葉ちゃんが俺の顔を見上げた。
「んん。今朝変わった夢見てね」
「……と言う夢を見たんだ」
「ふーん。なんて言うか、不思議な夢だったんだね、お兄ちゃん」
俺の話に、青葉ちゃんは興味深そうに頷いた。
「でも、今時桜の木なんてめずらしいよね」
「そうそう。そもそもこんな残暑のまっただ中、うだるい気候が支配する時期に、何が哀しくて桜の木なんか夢に見なくちゃならないんだろうねえ」
俺は苦笑いを浮かべた。
「あまり夢なんか見ないんだけどなあ。ほら、どうせなら高級料亭でご飯をいっぱい食べてるところとか宝くじが前後賞まとめて当たった夢だとかの方が嬉しくない?」
そう言って、隣の女の子に同意を求める。
「そうかな。でも、目が覚めたときに悲しくならない? だって、起きたら全部架空の出来事だったって分かっちゃうんだよ?」
トレードマークの大きなリボンをゆらしながら冷静なつっこみを返す青葉ちゃん。
「いや、どうせ見るならでっかい夢の方がいいじゃない」
「でも、かないそうもない夢を見てももったいないよ」
森家の家事を一人で切り盛りするだけあって、年に似合わぬ(ちなみに、青葉ちゃんは現在中学生)現実的なお言葉だった。
「でも……、満開の桜の木の下っていうのはロマンチックな感じだよね」
「え?」
さっきと違う言葉を聞き、思わず青葉ちゃんを振り返る。
「だって、女の子が悲しそうに桜を見てるんでしょ? なんだか漫画に出てくるヒロインみたいじゃない」
年齢相応の、恋に恋する典型的乙女の反応だった。先ほどとは全く逆の反応である。こころなしかちょっと瞳までうるうるしている。
「きっとその女の人、戦争で引き裂かれた恋人を想ってずっと桜の下で待ってるんだよね……。いいなあ……」
純な視線は何処かあらぬ方角を見てる。ちょっとやばげだった。
「いや、誰もそんな少女漫画そのままな展開だなんて言ってないんだけど」
「いいなあ……」
だめだ、向こうの世界に行ったまま返ってこない。青葉ちゃんは夢こそ無いものの、想像力は豊かなお子さまだった。
「桜が美しく咲いているっていったら、木の下に死体が埋まっているからとか言わない?」
「えー? 何処かの猟奇殺人じゃないんだからそんなのはだめだよー。桜の木の下には恋人がいるの。いないとダメなんだから。風流じゃないよ、お兄ちゃん」
なぜだかひどく怒られた。どうやら彼女のお気に召さなかったらしい。
「風流とは関係ない気がするんだけどなあ……」
余所のケースも想像してみたが、どうしても恋人と風流とは関係ない要素だという結論しか出てこない。
「そんなに夢が気になるんなら、お姉ちゃんに占ってもらったら? お姉ちゃん、結構こう言うこと得意だよ?」
悩む姿を見て勘違いしたらしい青葉ちゃんがそんなことを言ってくる。
「雪村が? あいつってそんな事得意だったかなあ?」
同じアパートの真上にすんでいる同じ学校所属にして同郷の人間の名を口にする。
雫内で雪村と初めて会った頃から記憶を探ったが、そんなことが得意だった事などかけらも思い出せなかった。
「本当だよ。お姉ちゃん、こういう事って得意なんだよ。私も、かぐらちゃんも前に占ってもらったんだよ。そしたら百発百中だったんだから」
自分のことでないのに、なぜか自信満々で答える青葉ちゃん。
「どんなことを占ってもらったの?」
多少不安になって聞いてみる。
「え? それは女の子の秘密だよー」
笑いながら質問に答えることを拒否する青葉ちゃん。
その姿に苦笑しながら言った。
「わかったよ。じゃあ、暇なときにでも聞いてみるよ」
「そうした方がいいよ、お兄ちゃん。夢占いって即効性があるそうだから」
まるで弟を諭すお姉さんのような口調で語る青葉ちゃんだった。俺はとりあえずうなずいて肯定しておく。
分かれ道になるいつもの高架歩道が見えてきた。
「じゃ、ここでお別れだね、お兄ちゃん」
「おう。行ってらっしゃい青葉ちゃん」
「行ってらっしゃい、お兄ちゃん」
そう言って自分の学校へと駆け出す青葉ちゃん。元気いっぱいだ。
「はっはっは。学校は逃げないのに」
途中、角のところで振り返った青葉ちゃんは、もう一度大きく手を振ってくる。
俺も、おもい切り手を振り替えした。
「……さて、俺も行くか」
アパートのお隣さんが角を曲がって視界から消えるのを確認し、俺も自分の学校への道を歩き出した。
§ §
きーんこーん、かーんこーん。
チャイムが鳴った。
「それでは今日のHRはこれで終了だ。各自、今日も一日頑張るように」
ありがたいお言葉を残して職員室へと帰っていく鬼浅間を見送るのもそこそこに、クラス一同が机の中をかき回して次の授業の準備を始める。まったく、学校開始早々一時間目からの教室移動は楽じゃあない。
「おや?」
机の中を覗いてみたが、なぜだか教科書は見つからない。
「どうした?」
悩んでる俺のそばに、山彦が何事かとやって来た。
「ああ。じつは俺の教科書がないんだ」
「さくっちのことだから、また忘れたんじゃない?」
移動準備を整えたらしい八重樫が、俺達の会話に乱入してきた。
「いや、さすがにそれはないと思うぞ。俺は教科書をいつも机にいれっぱなしにしてるからな」
「や、さくっち、昨日まで授業無かったんだけど」
呆れたように八重樫が言った。
「……ちょっとしたジョークだっつうの。マジで返すな」
そう言って、いそいそと自分のカバンから教科書と筆記用具を取り出しす。
「ふーん。ま、別にいいけど」
俺の行動を見下ろしながら、八重樫は冷たく言った。
「あ、わるいが今日は実験の準備当番だから先に行かせてもらうぞ」
時間を確認した山彦が慌てたように言う。そして、そのまま教室を出ていった。
「んじゃま、あたしもそろそろ行きますか。こんな馬鹿ほっといて」
続けて廊下へと出ていく八重樫。
「馬鹿はよけいだっつーの」
「や、なんてったってさくっちだし」
そう言い残すと、山彦の後を追うように八重樫のやつも目の前からいなくなった。
「早くしようよ舞人君。もうみんな行っちゃったよー?」
そう言って、いつの間にかやってきていた希望までが俺を急かす。
「そんな慌てなくったってまだ時間あるだろう?」
せわしげにばたばたする彼女を見る。
「だってほら、もうみんないないよ?」
当たりを振りかえ指し示しながら言う。
「わかったっつーに。……ホラ、準備できたぞ」
そう言って立ち上がる。
そうして、既に誰もいなくなっている教室を出た。時計をちらりと見たら授業開始までまだ五分以上時間に余裕があった。
「あ」
「どうした希望」
特別教室に向かう廊下の真ん中でいきなり素っ頓狂な声を出した希望を振り返る。ポニーテールのプリンセスはなぜだか落ちつきなく辺りを見回し始めた。
「う、うん……」
なんだか言いにくそうに辺りを見回してみたりうつむいてみたりしている。
「その舞人君、先に行っていてくれないかな?」
「ん? なんでだ?」
「あ、その……、あの、ちょっと用事思い出しちゃって」
そう言いつつも、視線はとどまることなくせわしなく動いている。
その様子に一つの予想が浮かんだ。
「……ああ、さっさと行って来い」
手を振って許可を出す。
「先に行っていていいからねー」
そう言い残すと、希望はトイレのある向こうの廊下に消えていった。
「……ううむ、プリンセスといえど女の子というわけか」
後ろ姿を見送りながら、ぼそりと呟く。
「しかし、どうするかな」
廊下の真ん中で一人考え込む。
先に行け、といわれたものの、今更希望を放っておいて先に行くのも気が引ける。
結局、この場で希望を待つことにした。
とりあえず壁にもたれかかって時間をつぶことにする。しばらくその場でぼぅっとしてると、見覚えのある人影が廊下に見つけた。左の髪をゴムひもでくくった特徴的な姿は見間違えようも無ければ見忘れようもない。
「なんだ、雪村も教室移動か?」
フレンドリーを装いつつそこを行く知り合いに声をかけた。
ところが、なぜか雪国の幼なじみは俺の姿を見てびくり、と体をすくませる。
「あ、……せんぱいも、ですか?」
おそるおそるといった風に、上目遣いでこちらを見てくる。およそ物怖じしない雪村らしからぬおどおどした応答だった。
「どうした雪村。何か悪い物でも食ったか? なんだかいつもと違うぞ」
さすがに不審に思い、訊ねてみる。
「いえ、そんなことはないですけど」
しかし、やっぱり雪村は俺の表情を窺うように喋っている。やっぱり何処かおかしい。
不安に思って自分の顔に手を当てて調べてみた。別段恐ろしげな表情はしてないはずだ。
「あの……どうしました? せんぱい」
「いや、何がお前をそれほどまでにびくびくさせるのかと思ってな」
手近な窓ガラスに顔を映し、目でも確認する。やっぱり別段おかしいところはない。
まあいい。大したことじゃあないだろ。
そう思い直し、改めて雪村の方に向き直る。どうせだ、せっかくだしこいつを暇つぶしにつき合わせてみるか。
「雪村、ちょっと時間はあるか?」
俺はそう聞いてみた。
「はい?」
相変わらず小声で答える雪村だった。
「ちょっと人を待ってる最中でな、その時間つぶしというわけでつき合ってくれ。どうせそんなに時間はかからないと思うから」
雪村はありありと困った表情を浮かべた。とまどいと不安の色が見える。
「……わかりました」
しかし、結局はうなずいて肯定してくれた。
「お前ってさあ、占いって得意だったか?」
とりあえず、今朝の話題を振ってみることにした。
「得意って、わけでもないですけど」
消え入りそうな声で答える雪村。
「だよなあ。青葉ちゃんがお前のことをさも凄い名占い師だといってたからな」
「せんぱいは、占って欲しいことでもあるんですか?」
「んー、というか、今朝妙な夢を見てな」
「夢、ですか?」
訝しそうな声で訊ねてくる。
「ああ。小さな女の子が桜を見上げてる夢なんだ」
「桜、……ですか?」
「そう、桜。たしか、花も咲いていたな。だから季節は春だと思うんだけど」
そう言って再び今朝見た夢を思い出す。あれは確か、目の前に満開の桜が立っていて、その根元にいるちいさな女の子が一人、悲しそうに……。
「女の子って、どんな女の子ですか?」
雪村の言葉に追憶がとぎれる。
「んー。その辺はいい加減なんだが……たぶん、年の頃は十になるかならないかくらいだと思う」
「十才にならないくらい……ですか」
呟くように俺の言葉をもう一度繰り返す雪村。ずいぶんと真剣な表情だった。そんな姿を見せられると、案外本当にこいつは占いが得意なのかもしれないと思えてくるから不思議だ。
「どうかしましたか? 桜井先輩」
後ろからさわやか満点の明るい声がかけられた。聞き覚えのある男声だ。
振り返った先には、にこにことした表情を浮かべながら俺を見下ろす長身の下級生が突っ立っていた。
「ああ、麦兵衛か。悪いが、今のところお前には用はないぞ」
いつものように手を振って追い払おうとする俺。
「そうですか。でも、僕は用があるんですけれど」
麦兵衛は俺の態度を全く無視してにこやかに答える。
「なに?」
「正確には、先輩の話している雪村さんに、なんですけどね」
そう言うと、麦兵衛は雪村の方を見た。
「あ、なにかな、麦兵衛君」
少し驚く雪村。
「ええ、次の時間の準備に雪村さんが来ないので班の人が探しているんですよ」
「あ……ごめんね。わざわざ」
雪村は大変だ、という表情を浮かべた。
「とりあえず早く行った方がいいですよ」
穏やかな顔で麦兵衛が言った。
「ありがとう、麦兵衛君」
「いえ、いいんですよ」
そう言って清々しい笑顔を雪村に向ける。そして、さも今気が付いたような表情を浮かべつつ俺の方に向き直ると言った。
「先輩も、急がないと遅れちゃうんじゃないんですか? 次の授業に」
「ご忠告ありがとうな」
相変わらずの横柄な態度に対し多少の苦々しさを覚え答えたが、あえて無視した。
「それでは、さっさと自分の教室に行って下さいね、桜井先輩」
そう言い残すと、雪村を追って麦兵衛も目的の教室とやらへ行ってしまった。
あいつのあの傍若無人な性格はどうにかならないもんかね。
そう思いながら慇懃な後輩の背中を一瞥する。
ぎゅっ!
「ぐおぉっ!?」
足の先に激痛が走った。たまらず悲鳴を上げてのたうち回る。
と言うか、このパターンは何処かでやった覚えがあるぞ。
「どうかしたの、舞人君?」
そして、いつの間にかにっこり笑った希望が俺を見下ろしていた。
「……お前さ、なんでもかんでも嫉妬に結びつけるな」
希望のあまりのしつこさに、俺はそう言った。
「し、嫉妬なんかしてないもんっ」
あわてふためき、顔を真っ赤にしながら、希望は力一杯否定してくる。それのどこが嫉妬じゃないっつーのか。
きーんこーん、かーんこーん。
チャイムが鳴り出した。一時間目の授業開始をを告げる音だ。
「やばい! このままじゃ遅刻だ」
慌てて廊下を駆け出す俺。
「あ、待ってよ舞人君っ!」
希望は情けない悲鳴を上げた。
§ §
桜の花が舞っていた。
美しく、はかなく舞っていた。
そして、そこには一人の女の子。
彼女は丘に立つ桜を見上げながら、ただ立ちつくしていた。
まるで、……誰かを待ち続けるように。
その横顔は悲しそうで。
その横顔は辛そうで。
だから。
その表情が忘れられなかった。
いや、忘れることなく覚えていた。
いつのことかは覚えていないけれども。
どこであったのかは忘れてしまったけれども。
僕は近づく。期待を抱いて。
僕は近づく。焦燥を抱いて。
かつて、知っていたはずの少女に。
たぶん、好きだったはずの少女に。
近づく僕に、彼女が振り返る。
心まで吸い込まれそうな栗色の瞳。
魂まで引き込まれそうな黒い髪。
「ねえ、……君は誰?」
教えてほしかった。君が誰なのかを。
知りたかった。君が誰なのかを。
長い髪が揺れた。
ゆっくりと、不思議そうに少女は振り向く。
目が逢った。
そして彼女は、僕を見て笑った。
花が咲いたような笑顔だった。
彼女はゆっくりと口を開く。
「こんにちは、舞人君。今日話して遊ぼっか」
§ §
朝。相変わらずの清々しい天気。
今朝は九月に入って久方ぶりに涼しかった。
俺はいつも通り、遅刻五分前に学校へと到着するペースで部屋を出る。
「……おい雪村。お前、何そんなところにいるんだ?」
アパートの目の前にある道路の真ん中に雪村が立っていた事に気が付いた俺は声を掛けた。
「あっ、せんぱい。ちょうどいいところで出会いましたね」
雪村はアスファルトの上でにこにことしながら三階の廊下にいる俺を見上げた。
なんか会話がかみ合っていないな、と思いながら鉄製の階段をカンカンと鳴らして一階まで下る。
「お前さあ、いつもはもっと早く出るだろ。どうして今日に限って遅いんだ?」
とりあえず、思ったことを聞いてみる。
「はあ、たまたまというか、ちょっとした用事というか、ともかく理由がありまして」
「んー? お前にもそんなわざわざな出来事があるのか?」
「ひどいです、せんぱい。そんなに雪村のこと邪険に扱わなくても良いじゃないですかぁ」
そう言って、いつものように立て板トークで抗議してくる雪村。
「だいたい、せんぱいは可愛い後輩にしてはるばる北海道からやって来た儚くも可憐な幼なじみに対してあまりに扱いが酷いです。美少女は絶滅保護対象なんですからもっと優しく扱ってくださいよ」
「ワシントン条約で保護される動物はこんな都会にいるはず無いだろ、雪村」
快刀乱麻を断つごとく、幼なじみのマシンガントークを封じる。
「なあ、雪村。いくら俺が心が広く、世の女性にはあまねく優しい桜井舞人様とはいえ、何事も限度っつーものがあるんだぞ?」
そう言ってくぎを差す。
「うう……。か弱い乙女である可憐な雪村は、こうして恐ろしくも淫乱男であるせんぱいに脅迫されてしまいました……」
よよよ、とその場に泣き崩れる雪村。
いつの間にかその様子をじっと見ていた近所のおばちゃん達の非難の視線が俺に注がれる。
「あ、ああ、悪かった雪村。今のは冗談だ。謝るからそう泣くな」
慌てて猫が撫でられた時に出すようなやさしい声で傷ついた繊細なハートを持つ乙女(自称)を慰撫する。
「ああ、俺もお前のような優しい女の子を見るとつい虐めてしまうんだ。許してくれ、許してくれ」
「ほんとうですか? 信じて良いんですね?」
そう言って、涙の一つも見えない顔を上げる雪村。
「ああ、信じろ。俺はそこまで外道ではないから。……人前では」
「……なんでそんな注釈を付けるんですか?」
「ん、何となく」
と、そっぽを向く俺。
「そんな逃げ道作ってるところで十分以上に卑怯じゃないですかあっ! 男ならきっちりと自分の言葉に責任持って下さいっ」
「いや、男は雲のごとく自由に流れ流れて生きることも大事だと、以前なにかの本であったぞ。ちなみに、その本は当時、真の男どもの間では大ベストセラーだった」
「そうなんですか?」
胡散くさげな視線で俺を見る雪村。
「もちろんだとも」
思い切り胸を張って答える。
まあ、本といっても漫画だったけど。
「そんなことより雪村、今何時だ?」
「ああっ! もう行かないと危ない時間じゃないですか!」
悲鳴を上げる雪村。
「そうか。だったら急ごうか」
その姿を横目に、落ち着き払って答える俺。
「は、はいっ!」
慌てて何度もうなずく雪村。俺達は通学路を学校へと向かって歩き出す。
「あのー、せんぱい?」
歩き出したとたん、猪口才な幼なじみが訊ねてくる。
「何だ、雪村」
「何でせんぱいは走らないんですか?」
その疑問に対して、再び胸を張って答える。
「簡単だ。今から出ても、ぎりぎりで学校には間に合うことが経験上確認されているからな」
「そうなんですか?」
「ああそうとも。この見極めを行うまで、何度失敗を繰り返してきたか。ああ、実に試練の日々だった……」
遠くに目をやり、長かった苦難の過去を思い出す。遅刻と同じ数の鬼浅間から与えられるいわれのない拷問の数々を反芻し、思わず目頭が熱くなった。
「……そう言えばせんぱい」
「あ?」
今までの鬼浅間との艱難辛苦激闘の日々の世界に浸っていた俺に頓着することもなく、雪村はまたもや唐突に話を振ってきた。
「最近よく眠れますか?」
「昨日の続きか?」
思い当たることを聞いてみる。
「そうです」
緊張をわずかに表しながら雪村が頷く。
「そうだな、睡眠不足、ということはないな」
それだけは自信を持って言える。
「そうですか……」
そのまま雪村はうつむいてしまう。しばらくそのままの体勢で何か考えている。
「あの、今朝も夢を、見ましたか?」
再び視線を上げると、今度はひどく真剣な顔で俺を見る。
「あ、ああ。そりゃ……今日も見たぞ?」
あまりの真剣な表情にさすがの俺も多少の不安を覚える。
「……ひょっとして、何か縁起でもないことでも起こるのか?」
「そうですね。……いろいろと起こるかもしれません」
「お、おい。何まじめな顔してるんだ雪村……冗談はやめろ」
茶化すように軽くいなしたつもりだったが、しかし相変わらず雪村の表情はただごとではない色が浮かんだままだった。
「難しいというか、問題というか……」
言いにくそうに口をつぐみ、こちらを窺うように見上げる雪村。
「せんぱい」
「なんだ、改まって」
自然と身構えてしまう。
「せんぱいは、ひょっとして好きに人とかいるんですか?」
「なな、何をいきなり言い出すんですか!」
急展開な話題転換にうろたえて裏声が出してしまう。
「その、男の人の夢に出てくる桜とか女の子とかは、恋愛とか、恋とか、そんなものをイメージさせるんですよ」
慌てたように両手を振って否定する雪村。
「ですから夢は、その、……そんな意思の表れなんじゃないかと」
「なあ、本当にそうなのか? いまいちその話は信じがたいんだが」
そう疑問を口にする。
当然、そんな結論を信じたくないからだ。
「そんなこと無いですよ」
しかし雪村は、俺の言葉に対し消え入るように呟いた。
「その……最近のせんぱい、優しいですから」
「気のせいだろ」
俺はそう答えた。というか、俺って昔と比べて優しくなったのだろうか? とても、そんな気はしないのだが。
「あ、着きましたね、せんぱい」
雪村の言葉に回りへ注意を向ける。
「確かに学園だな」
「確かに学園です」
時間を確認する。HRまでちょうど二分の余裕があった。
「おし、さっさと行くぞ」
同行者に注意を促すと、校門をくぐる。
「……どうした、雪村。入らないのか?」
俺は振り返った。
雪村は校門前でなぜか立ち止まっていた。
「ちょっと、約束がありますから」
そう言って、なぜだか雪村は悲しそうに笑った。
「ほら、先に行って下さい。雪村はこれからしないといけないことがありますから」
「あ、ああ……」
時間を考えさすがに少し躊躇する。
前にもこんな事があったのを思い出す。あれはたしか、こいつが桜坂学園に入学してきて俺とはじめて一緒に登校したときのことだ。
「まあいいけど。遅刻するなよ? ここまで来て間に合わなかったら馬鹿みたいだからな」
そう声をかける。
「分かっております」
雪村は、今朝アパート前で会ったときのような笑顔をすると、右手を額に当て、軍人のように敬礼してきた。
とりあえず、俺も同じように小さく手を振り替えし、自分の教室へと向かった。
「あ、舞人君、おはよー」
教室に入るなり、先に来ていた希望が挨拶してきた。
「ああ、おはよう」
俺も挨拶を返す。
「今日はどうしたの? 複雑な顔をしてるよ?」
不思議そうに聞いてくる希望。
「そうか? いつもと同じだと思うけどな」
そう言って、自分の席に腰掛ける。
きーんこーんかーんこーん。
ちょうどチャイムが鳴った。それと同時に担任の鬼浅間がおなじみのジャージ姿で教室へと入って来る。
慌てて自分の席へと帰るクラスメイト達。教室を一瞬間だけの喧噪が支配し、すぐに静寂へと切り替わる。
今日も、変わらない一日が始まった。
§ §
あたりは太陽が赤く染まるようになる時間になっていた。
そんな中を、俺と希望は肩を並べて歩く。
それは希望との、どちらかが言い出したわけでない決まり事だった。
いつもの帰り道。学校から、バス停までを歩く事。その、ほんのちょっとだけのささやかな道のりを楽しむこと。
そんなほんの些細でささやかな約束だ。
「今日はバイトだっけ?」
「ううん。今日じゃなくて、明日だよ」
「そっか、明日か」
道中に交わされるそういったたわいのない会話の一つ一つが心地よかった。
当たり前のように使われる主語のない言葉。
当たり前のように行われる小さな心遣い。
その間に起こるすべての出来事。
その一つ一つが限りなく愛おしく、同時に幸せだった。
やがて、目の前に見えてくるのはバス停の待合所。
短い幸せの終わりを告げる終着駅。
「今日はバス、早く来そうだね」
停留所の前で立ち止まり、困ったように聞いてくる希望。
「そうだな。早くがいいな」
俺はそう希望に答える。
「あー、なんだか私を早く帰らせたいみたいな言い方だね、それは」
ちょっと怒った顔をする希望。
「長く待つより、早く乗れた方がいいだろ」
俺はそう答える。
希望は困ったような、嬉しいような、複雑な笑みを浮かべた。
「……舞人君、変わっちゃったね」
「えっ?」
思わず聞き返す。どこが変わったのかと、思わず自分の体を見回す。しかし、別段代わった所は見つからない。
「違うよ、そうじゃなくて……」
そう言って、希望は穏やかに笑った。
「なんだか、優しくなった」
その優しい表情に、いまいち自信なく答える俺。
「そう……だったか?」
「うん。以前は、もっとつっけれんどんな態度だったもの」
「そ、そうだったかなあ……?」
どうにも心当たりがなかった。
「で、なんだ。早く帰りたくないのか、希望は」
気恥ずかしくなった俺は無理矢理話を元に戻した。
「そうだねー。別に今日は宿題が出てるわけじゃないし、二、三本バス遅らせてもいいかななんて思ったりなんかしたりして」
そう言って、俺の方を見る希望。
「ね、舞人君は?」
そう言っていたずらをする時のような顔で笑う。
「そうだな。……じゃあ、ちょっと寄り道でもしていくか?」
そう言って辺りを見回す。
「といっても、この辺はなにもないけど」
「それだったら、私いいところ知ってますから」
希望が得意そうににっこりっとする。
「こっちこっち」
そう言って指し示された場所は、バス停のすぐわきから上れる丘の上。桜の木が立つ、俺のよく知ってる場所だった。
§ §
それは、一面に広がる赤い世界だった。
視界に、赤い空と、丘から見下ろす夕焼けの街が映る。
「ね、きれいでしょ、ここから眺める景色」
こちらを振り返った希望から同意を求める言葉が発せられた。それは、音となり大気を伝わって俺の鼓膜へと到達する。
しかし、耳にたどり着いたものに対し脳が反応しなかった。
焦燥感。
むしろ、俺が感じていたのはそれだった。
丘の上。
二本の桜が立つ街のはずれ。
そして、俺が惹かれている場所。
なのに。
なぜか俺は落ち着くことが出来なかった。
「じつはねー、ここは私のとっておきの場所なの」
再び希望の声。楽しそうに語る彼女の声。
しかし、頭に残らない。
桜の梢が揺れた。
葉擦れの音する。その音が耳から離れない。
振り返る。
桜の木を見上げた。
なぜこの場所がこうも気になるのだろう。
なぜ今になって気になるのだろう。
いつもは、けしてこんな気分にはならないのに。
「……舞人君?」
いぶかしげに訊ねる希望。
「ね、舞人君」
目が離れない。
目が離せない。
丘に立つ桜の木から。
空へと掲げられた枝から。
「舞人君!」
強い声。思わず我に返る。
「あ、ああ……なんだっけ」
動揺を押し殺し、自然な表情を装いながら訊ねる
「もうっ。聞いてた? ここはね、ちっちゃいときから私のお気に入りの場所なんだよ」
両眉を寄せ、希望は怒っている。
「もう。今日の舞人君なんだか変だよ? さっきから綺麗だ綺麗だって言っているのに、ちっとも話を聞いてくれないじゃない」
そう言いながら俺の顔を心配そうにのぞき込んでくる。
「いや、その……目が離せなかったんだ」
無理矢理桜から目をそらし、答える。
「あ、そっか。舞人君、この景色に見とれていたんだ」
俺の言葉に得心したようにうなずく希望。
「きれいだもんね、この景色」
「ああ……」
肯定とも否定ともつかない言葉を呟きながら、俺は無言で赤く染まった街並みを見下ろす。
希望もまた、じっと夕焼けに染まった景色に心を奪われ無言だった。
涼しい風にそよぐ桜の枝葉の音だけが辺りに流れる。
「……私、おばあちゃん子だって事、舞人君に言ったっけ?」
沈黙を先に破ったのは希望だった。
「ああ、聞いた」
俺は短くうなずく。
前にそんなことを聞いたことがあった。たしかあれは、初めて俺が希望をからかうために『なが沢』へ行ったときだ。
「ここはね、私のおばあちゃんが教えてくれた場所なんだよ」
遠くを眺めやりながら希望が言う。
視線の先にあるのは赤い空。
それはまるで、ここではないどこか、記憶の中の光景へつながる場所を見ているようだった。
「春になると、桜がきれいでね。とってもすごいんだよ」
「そうなのか」
振り返り、桜の木を見上げた希望に対して、俺はどこか空々しい相づちを返す。
焦燥感は消えなかった。
むしろ、強くなっていた。
理解できなかった。
なぜか、彼女の行動の一つ一つが俺の心を軋ませる。
なぜそう思うのだろうか。
なにがそう思わせるのだろうか。
そんな俺の心情を知らない希望は「そうなんだよー」と言って無造作に地面へ腰を下ろした。
「ほらほら、舞人君も座って座って」
そう言って、招くように手を振りつつ、下から俺を見上げる希望。
「あ、ああ……」
促されるまま、俺はゆっくりと地面に座った。そのままの体勢で、しばし、口を開くことなく麓を眺める。
夕日がきれいだった。
街がきれいだった。
丘から見やるすべての光景が美しかった。
それは見慣れた光景だった。
どうしようもなく美しい光景だった。
それでいて、懐かしい光景だった。
そして、悲しい光景だった──。
よく分からなかった。
眼前に広がる情景が悲しいのか、それともこの夕方の丘からの眺めに関係ある何かが悲しいのかが。
「……実はね。ここ、私が悲しいときによく来てた場所なの」
希望は笑った。だがそれは、俺には辛そうに感じられた。
「懐かしいなあ。悪いところばっかり並べてめそめそしていてもしょうがないぞーって、よく頭叩かれてたっけ」
まるで、ここにはいない誰かに、ここにいてくれた誰かに、話しかけるようにゆっくりと語りかける。
「そのあとは、いつもこうやって二人でのーんびりひなたぼっこしたんだよ……」
そう言って、俺に向き直る希望。
ただ彼女は、懐かしそうにほほえんでいた。
「……もう、夕方だけれどな」
街の方へと振り返り、答えた。
「もう、そんな風にいちいちつっこまない」
俺の言葉に憮然とした声を出す。背中で彼女がため息を吐く音が聞こえた。
「……でも、ほんときれいな夕日だね」
そう言って、街を見る俺の横に体を進めてくる。
「もう、一日が終わっちゃうんだ」
そういって、希望は沈みゆく夕日を見つめつづけた。
「なんだか、寂しいね」
愁いを帯びた瞳で、じっと山の峰に消えていく夕焼けを見つめ続ける彼女。
「そろそろ帰ろうか」
俺はそんな希望に注意を促すように強めの口調で言った。
「あまり遅くなったら、家の人が心配するだろ」
「……そうだね」
名残惜しそうな表情で希望が答える。
「そういう点では、ちょっとだけ舞人君の生活環境がうらやましくなったりなんかして」
「俺の環境?」
希望の言葉の意味を聞き返す。
「ほら、一人暮らしって、なんだかあこがれちゃうじゃない」
「……これはこれで大変なんだぞ」
炊事に洗濯、やらなければならないことはいくらでもある。自由と引き替えに押しつけられる義務の大きさはそう軽いものじゃない。そう思いながら、俺は丘を降りる道へと歩き出す。
「そういえば、今度の日曜日、舞人君暇なの?」
「ああ。確か、空いてたような気もするぞ」
続くのは、たあいない会話。
恋人との、ごく普通の会話。
急速に心にあった圧迫感が薄らいでいく。
その様に、安堵する俺。
そのときだった。
不意に背中へ視線を感じた。
思わず立ち止まり、ゆっくりと振り返る。
「どうしたの?」
不思議そうに希望が訊ねる。
「いや……何でもない」
桜の脇に、一人の少女が見えたような気がした。
どこかで見た気がする少女だった。
どこかで覚えていた少女のようだった。
そして。
散ったはずの桜の花びらが一片、俺の前を風にながされて舞った気がした。
淡いく懐かしい香りが鼻臭を刺激し、次の瞬間、かき消え去った。
風が強く吹いた。
丘の上の桜の木が、大きく揺れた。
それが、なぜか俺をどうしようもなく不安な気持ちにさせた。
§ §
夕焼け空。
桜の花が舞っていた。
ただひたすらに舞っていた。
山間へと消えゆく太陽と舞い散る花びらで彩られた世界。
紅と薄紅色で作られた世界。
その中心にあるのは桜の木。
なぜだか不安になる。
あそこに、あの子がいるのではないかと。
なぜだか不安になる。
ここから、あの子がいなくなるのではないかと。
会えることを望んで、会えないことを望んで、僕は桜の木の根本に向かう。
そして、そこに人影があった。
だけど、人影は一人じゃなかった。
世界の中心には、一人の少年と一人の少女がいた。
少年は、桜の幹にもたれながら外を見つめていた。
少女は桜の幹に隠れながらじっとこちらを見ていた。
それは、どこかで見た光景。
それは、どこかで覚えた既視感。
なぜだか不安になる。
知らないはずの風景に。
なぜだか怖れを抱く。
触れたことのないはずの感覚に。
そして、安らぎを覚える。
初めてのはずの邂逅に。
俺は二人を知っていた。
でも、誰かが分からなかった。
永遠と刹那の間に存在する記憶の中にその存在が刻印されているはずなのに、俺は──僕は、二人を思い出すことが出来なかった。
「やあ」
ゆっくりと少年が振り返る。
「久しぶりだね」
少年は言った。
「それともこんにちは、かな? あるいは、その方が適切かもしれないな」
僕は混乱した頭で、ただ押し寄せてくる実体のない恐れを感じていた。
「”朝陽”だよ」
少年は言った。
「朝陽。それが僕の名前。思い出したかい?」
少年はゆっくりと振り返る。
嗤っていた。
どこまでも空虚なものを浮かべながら何かを嗤っていた。遙か深淵を見通すような暗い瞳がひときわ印象的に感じられた。
「……あさ、ひ?」
「そう、朝陽」
まるで他人事のような態度で自分の名前を答える少年。
「そう。もう一人いるんだ、実は」
そう言うと、朝陽はさも自分に落ち度があったような申し訳ない表情を浮かべ、その視線を桜の木の傍らへとやった。そこには、まるで木の影に隠れるかのようにひっそりとたたずむ少女がいた。
「”紹介した”よ? 桜香」
そして、朝陽は僕を振り返る。
「君の大切な──そして、数少ない知り合いの内の一人だよ」
桜香と言われた少女が僕を見た。そして、僕の目をじっと見つめる。
「彼女の事も忘れちゃったかい?」
腕を組みながら、朝陽は僕にそう聞いた。僕は首を横に振った。
朝陽は困惑した表情を浮かべた。
「おかしいな」
そのまま桜の木の隣に立つの少女の方を向く。桜香は哀しそうな瞳を僕に向けていたが、それ以上は何もせず、ただ黙っていた。
「……まあいい。きみにもきみの理由があるんだったね」
渋々納得したようにそう付け加える。
「じゃあ、今日はこの辺でお開きとしようか」
朝陽は淡々と言った。
そう言って再び彼は笑った。どこまでも空虚な笑みだった。
そして、桜の花が舞い始めた。日が沈んでいく。
「次に会うときは、覚えていて欲しいな。僕が君を忘れなかった様に」
花弁が、風もないのにたおやかに舞い散っていく。
紅色の夕陽が光を失い、周囲は暗やみに包まれていく。
その中で、朝陽は嗤っていた。
「それが、この道を選んだ君のせめてもの償いだと思うよ」
そして、世界が消えた──。
§ §
目を開いた。
視線の先に飛び込んできたのは、いつもの天井だった。
俺の部屋。俺のベッド。
いつも目を覚ます場所。
「……夢?」
そう呟く俺。
寝起きにもかかわらず、倦怠感に包まれたままのだるい体をのっそりと起こす。
違和感を感じて手のひらを見る。それは、寝ている間中握りしめられていたらしく、血が引いて真っ白になっていた。
「夢……だよな」
俺は再び呟く。あの不思議なやりとりを納得させるために。
だが、頭の何処かがささやく。本当にあれが夢なのか、と。
ひどく現実感のある夢だった。
それだけは確実だと思う。
夢の中にいた二人。
少年と少女。
何処かで見たことのある二人。
今となっては、一体何を話していたかを思い出せない。おそらく、その会話は忘却の彼方へと消えてしまったのだろう。
そんな、訳の分からない夢なのに──。
なぜ俺はあんな夢が気になるのだろう。
なぜ俺はあの二人が気になるのだろう。
分からなかった。
ただそれがひどく重要なことだと言うことは、おぼろげながら理解していた。
いや、理解でなく確信と言ってもいいかもしれない
思い出そうとして、しかし頭を振って振り払う。
荒々しく息を吐き、時計を見る。もう昼前だった。
カレンダーを見る。今日は日曜だった。いくら学校が休みとはいえ、あまりぶらぶらしていても仕方がない時間だ。
気分転換に何かをしようと思い立つ。
そう、たとえば……。
「……しまった! 今日は希望と待ち合わせの日だ!」
先週していたデートの約束を思いだした俺は、大慌てて服を着替えて部屋から飛び出した。
§ §
「ぜえ、ぜえ……」
何とか待ち合わせ場所に指定されたクレープ屋に到着する。全力で走り続けていたため、息は絶え絶えだ。
周囲を見回してみる。しかし、肝心の希望は見つからない。
「やばいな……遅れたか?」
時計代わりの携帯電話に表示される時刻をおそるおそる確認する。
待ち合わせ時間の一時間前だった。
「一時間前!?」
驚きあまり、思わず声に出してしまう。
……そういえば、遅れないように部屋の時計を一時間進ませておいたんだった。
ため息をつく。
まさかこんなお約束ドラマな展開をするはめに自分がなるなんてなあ……。
「あ、桜井君じゃない」
メロドラマの主人公の気分に浸っていた俺に、どこからか子供子供した幼い子供の声がかけられた。
不審に思い、振り向かる。ところが、視線の先にはなぜか誰もいない。
「聞き違いか」
そう言うと、再び元の方向に向き直る。
「桜井君!」
またも子供子供な子供の声が聞こえた。
「もー、いったい誰ですかな。こんなハンサムを逆ナンパしようなんていう今時ませたお子さまは。サインは一人一枚ずつだよ」
そう言いながらもう一度振り返る。
目の前に二本の触覚が生えていた。そのまま視線を下に向ける。
見知った顔と目があった。
「どうして里見先輩がここにいるんです?」
俺は心の奥底から浮かんだ純粋な疑問を口にした。
「私がクレープ屋さんに来ちゃいけないの?」
失礼なことに、外見相応の子供っぽい服に身を纏った先輩は、作家志望にも関わらず疑問を疑問で返してきた。
「それより桜井君。さっき私のことについて失礼な台詞を言わなかった?」
『ちょっと』より『かなり』に65パーセントほど針が傾いたご機嫌斜めな表情を、精一杯背伸びしながら向けてくる。相変わらずのねこねこリュックを背負ったおこちゃまスタイルは、俺に今更失礼もなにもないという信念をより強くさせた。
「そんなことあるはず無いじゃないですか。嫌だなあ、先輩」
でも、一応のフォローは忘れない俺。ああ、小心者の自分がちょっと可愛い。
「ほら、この純粋な輝きに満ちた目を見てください。嘘偽りを申すような邪な目に見えますか」
大仰なアクションで自分の目を指さし示す。
「うーん。目はうそをついてないみたいだね。でも、口元はなんだかうそをついてる気がするんだけど」
……口元が引きつったままだったかっ? 結構鋭いな、この人っ!
「そうですか。里見先輩は後輩の言葉が全く信用できないと言うんですね」
しかし、慌てず騒がず話を逸らす俺。
「わわっ。そんなことは言ってないよー」
しかも、本気で慌てる先輩。
「僕は先輩だけはと信じていたのに……よよよ」
俺はオーバーアクションでその場に倒れ込む。
「ご、ごめんね、桜井君。私が悪かったよ。ちょっとしたいたずらのつもりだったんだけど、桜井君をこんなに困らせるだなんて思わなかったから……本当にごめんね」
芝居にも関わらず本気で謝ってくれる先輩。なんだかこれでは俺が全くの悪人だ……。
「いや、あんまり気にしていませんから大丈夫ですよ」
そう言って、慌てて立ち上がる俺。
「ほらほら、僕はこーんなに元気ですから」
そう言って辺りを飛び跳ねる俺。陽気さをアピールするためにスキップまで披露する。
「そ、そうなんだ」
しかし、いきなりの俺のリアクションに対し里見先輩は何故か硬直していた。まったく、実に失礼な方だ。
「と・こ・ろ・で、先輩もクレープ食いにここへ?」
ところで、のところを特別強調して喋る。
「う、ううん。それもあるけど、ひかりと待ち合わせしてるの」
「あ、そうなんですか……」
文芸部凸凹コンビの凸の方の顔を思い浮かべる。あの人、ちょっと苦手なんだよな。切符いいけど。
ん? 待ち合わせということは買い物か……?
「舞人君はどうしてここに?」
俺の話を受けて、質問返しをしてくる。
「俺ですか?」
「うん」
無邪気にうなずく里見先輩。
「……そうですね。先輩と似た様な理由ですかね」
あえて曲解して質問に答える。
「そっか。舞人君、女の子と待ち合わせしてるんだね」
「な、なんでいきなりそおいう結論が導き出されるんですかっ!」
恥ずかしくも裏返った声を上げてしまう俺。
「だだだ大体、俺が待ち合わせしてる相手がなんで女の子だと思うんですっ!」
「え? だって私と同じなんでしょ? 私も女の子と待ち合わせてるんだけど?」
目の前の先輩は心底不思議そうに首を傾げる。
いや、確かにあの姐さんも分類上は女だ。だが、普通この状態だと友人と待ち合わせてると思うんじゃないのか。ていうか、どうして思わないんだ、この人は。
「ね、ね。やっぱりあの子? ほら、夏休みに舞人君がすっごくかっこいい告白した女の子」
そして、すかさず追及されてしまう。
「たしか、星崎希望さんだよね? 私本物を見たのは初めてだったんだよ」
「そんな珍獣みたいに言わなくても……」
いや、まあ、あいつの呑気さはある種珍獣並ではあるけれども。
「なんだかあこがれちゃうよ。やっぱりあんな風に男の子から告白されるって、うらやましいよね」
「そ、そういうものですか?」
思わず恥ずかしさ120%の記憶──知り合いのバイトをしている喫茶店で、知人に囲まれたあげくの告白──を思い出す。ていうか、あんなこっ恥ずかしいシチュエーションって、そんなに憧れるようなものなのか激しく疑問だった。と言うより、当事者としては二度と経験したくはない出来事にしか思えてならなかった。
「うん、そう」
しかし、俺の疑問を無視するごとくに力強くうなずいてくれる里見先輩。
「女の子はね、やっぱり自分から告白するんじゃなくて、男の子の方から『好きだ!』って言ってほしいものなんだよ」
ほう、とした表情でそのままどこかあらぬ方に目をやる里見先輩。
きっとまたおとぎ話の世界にでも精神がトラベルしてるに違いない。ホントに外見を裏切らない思考ルーチンだ。
「……なにやってんの、あんたら」
聞き覚えのある呆れた口調が背中からかけられる。
振り返ってみると、そこには背の高い目のつり上がったロングヘアーなクールビューティといってよい女(メガネ付き)が一人突っ立っていた。
「聞いてくださいひかり姐さん。じつはこのお方が不思議の国につながるウサギ穴に落ち込んだまま帰ってこないのですよ」
「はあ?」
なにを言ってるのか理解できないという表情を浮かべ、ひかり姐さんが尋ねかえす。
「いいから、私にも分かるように説明しなさいよ、桜井」
「えとですね……話せば長くなると言うか……」
「桜井君、星崎さんとデートなんだって、ひかり」
いきなり結論を言ってしまう里見さん。
「ああ、それだけ」
しかもそれは、たった一言で処理されてしまう。
「いや、いいですけどね……」
あきらめの吐息を絞り出す。
「ね、ね。それはそうと桜井君達はどこで知り合ったの?」
そう言って、俺の顔をのぞき込んでくる好奇心旺盛な里見先輩。頼むから他人の色恋沙汰より自分の色恋沙汰に目を向けてください。
「知り合うも何も、もともとクラスメートですよ」
とりあえず事実を答える。
「そうなの? 何でもミヤと佐竹が言うにはもっと前から知り合いだったみたいじゃない」
訝しげに聞いてくるアマゾネス。どこからそんな情報仕入れて来るんだ、あの先輩達は……。
諦めてなれそめから語ることにした。
「あー、そうですね。あいつとは、正確には一年前の文化祭会議の時に知り合ってたらしいです」
「らしい?」
「いや、俺寝ていましたし」
再び過去を振り返る。……考えてみると、実に情けないお話だ。
「ひょっとして、あのとき委員長に当てられて、寝起きのあまり逆切れして『悪いところばかり並べずもう一度考え直せ』なんて表面はまともそうな割に中身は空虚な演説をぶってたのは桜井だったのか?」
「……なんでひかり姐さんが知ってるんですか?」
あまりに具体的な台詞の内容に、おそるおそる聞いてしまう。
「そんなの、私も参加してたからに決まってるじゃない」
「な、なんであの場にいるんだよ、あんたがっ!」
思わず強く反発する俺。
「決まってるじゃない。文芸部の代表としてよ」
「去年って、あんた部長じゃないんじゃ?」
「部長よ。他に適任者がいなかったから」
苦笑しながらアマゾネス女は宣う。
……言われてみればそうだった……。
「ちなみにこだまもいたけどね」
さらに追い打ちのお言葉。
「私文化祭実行委員会連絡係だったんだよ」
のほほんとした言葉が何とも言えないやるせなさで俺の心を包みこむ。何というか、あまりに世界は狭かった。
「でも、あの時桜井君いたんだ。ちっとも気が付かなかったよ」
感心した風に聞いてくる里見先輩。
「……でも、もう終わったことかもしれないど、上級生にあんな言い方は駄目だよ。あの後大変だったんだから」
……なんだか風向きが悪くなってきた。困った俺は、とりあえず周りを見回してみたりして視線を逸らす。
ちょうど、店の前からちょっと離れた場所で突っ立っている希望の姿があった。
時間を見る。もうそろそろ待ち合わせの時間になろうとしていた。
「あれ? あそこにいるのって、希望さんだー」
大仰なアクションとともに、胡散臭いゼスチャーをしながらわざとらしく喋る。
「あ、本当だ」
俺の迫真の演技に引っかかってくれた人約一名。ありがとう里見先輩。僕はこの恩一生忘れません。
「ということで、連れが来たみたいなんでそろそろ行きますね」
そのままそそくさと立ち去る準備に入る俺。
「逃げる気ね」
「ええ」
「つまんないわねぇ。もう少しくつろいでいきなさいよ」
さも残念そうにおっしゃるひかり姐さん。
「シャルルマーニュの二の舞はごめん被ります」
「雨降って、地固まったじゃない」
「すでに固まってるところに雨が今更必要ありません」
「そっちの方がおもしろいのに」
なにげにまじめな顔でなに言うかなこの人は。
「まあいいわ。なれそめ以降の話を聞くのは今度にでもしておくから」
恐ろしいことを平気で口走る。
「そうそう桜井。今度の水曜、文芸部は今月の新規購入図書の整理を行うんだけど」
「お、俺は部外者なんだから関係ないでしょうが!」
「んー?」
片眉を優雅に立ててひかり姐さんは俺を眺めやる。
「ちょっとこだま。おもしろい話があるんだけど、聞く?」
「わわわわわ分かりましたぁ!」
ひかり姐さんの危険ワードに思わず裏声になりながら答える俺。
「この桜井舞人、及ばずながら全身全霊を込めて文芸部のお手伝いをささせていただく所存であります!」
直立不動で敬礼したまま硬直する俺。
「あ、桜井君、また手伝ってくれるんだ。部員でもないのに毎回ありがとう」
無垢な笑顔で俺に感謝してくださる優しい里見先輩。
ああ、ありがとうございます、里見先輩。でも、どうしてあなたは私のこの奇妙な態度に疑問を抱いてくれないのでしょう。
「……せっかくここに現物があるのにねぇ」
そう呟きながら謎の原稿用紙をひらひらさせるアマゾネス部長。
持ち歩いてるのか、あんた……。
その事実に思わず背筋が凍り付く。
「じゃあ、私らは行くとしますか。おじゃまらしいからね」
「桜井君、星崎さんによろしくね」
そう言って笑いながら先輩達は立ち去っていった。
……どうして俺は勝てないんだろうか、あの人らに……。
カジュアルショップに向かって人混みの中に消えていった凸凹先輩コンビを黙って見送る俺。
「さっさと行こう……」
そう口にすると、俺は希望の待っている場所に向かった。
§ §
「またせたな、希望」
所在なげにクレープ屋のそばで立つ希望に対し、俺は努めて明るく声を掛けながら近づいた。
「あ、こんにちはだねー、舞人君」
声を掛けられ、ようやく俺に気づいたらしく、俺の方を振り向いた希望はそう答える。
「べつにいいよ。まだ待ち合わせの時間より早いから」
そう言って笑顔を浮かべる希望は、俺が今まで見たことの無い白く新しいワンピースとチェックのショーツを纏っていた。それがまた、大きめのリボンと束ねられた長い髪になんともよく似合っている。
「でも、なんだかこうやって学校以外のところで逢うなんて妙な気分」
「……そうか?」
見とれていて、思わず反応が遅れてしまう俺。慌てて適当に相づちを打って話をつなぐ。
「だって、一週間の内六日は学生服でしょ? 私服で逢うなんてやっぱり新鮮だもの」
「そおかあ? 俺はあんまり気にならないけどな」
まあ、確かに、気分的には新鮮になれるのかもしれない。が、わざわざ力説するようなものでもないと思う。
「……ね、ほかには何か感想はない?」
「あ?」
「だから、ほら」
そう言ってくるくると俺の周りを回る希望。
「いや、なにがなんだか」
「もー、せっかく二時間もかけてかわいい彼女がおめかしして来たのに、なにもないの?」
「は?」
「『は?』じゃないでしょ」
そう言って口をとがらせる希望。
「な……俺は何度も言ってるように硬派でストイックで男の哀愁を漂わせた孤高のダークヒーローなんだぞ。女の服装なんかいちいち気にしてられるかっての」
大体、二時間って何だよ。そこまで分かるか。
確かに見とれてはいたけど……。
「ひっどーい! いいもん。そんなこと言うんだったら舞人君のこときらいになっちゃうからね。いいんだね。ええと……しらないよ」
俺の葛藤など気にすることもなくそう言ってそっぽを向く希望。全く。何かあるとすぐにすねやがって……。
「分かったよ、何か奢ってやるから機嫌直せ」
「わ、舞人君太っ腹。さっすがー。話せるうー」
おごり、という言葉を聞いたとたん、希望の表情がころりと変わる。……女は魔物だ。
「で、どこに行くんだ」
今日一日、目標決定権を持つ女に尋ねる。これが決まらないことには話にならない。
「うーん、特に決めてはないんだけど」
そう言って希望は口元に人差し指を軽く当てながら考え込む。
「……特に決まってはないんだな?」
「うん」
希望は頷く。
「じゃあ、そこいらへんをぶらぶらするか」
「うん」
そう言って満面の笑顔を見せる希望。そのまま、俺の横にぴったりとくっついてくる。
「……どうした。あんまりくっつくと動きにくいんだけど?」
不満そうに額にしわを寄せる希望。
「ぶー。わかってるでしょうに」
そう言って俺の顔をのぞき込む。
「えと……、何だっけ?」
まずいことに、本当に記憶に無い。
「腕」
「うで?」
よく分からないまま手を出す俺。
そして、差し出されたそれに嬉しそうに抱きついてくる希望。
「わわっ。なにをいきなり!」
「……えー。もしかして、また忘れたの?」
眉間にしわを寄せたまま希望が答える。
「ほら。この前の朝、校門前で言ったこと忘れたのー?」
「この前の朝──?」
慌てて記憶を探る。確かあのとき……、
『ちょ、ちょっと待て。分かった。ていうか、理解した。納得した。だからせめてこういうのは学校以外でやってくれ』
……。
希望の方をちらりと見やる。
「思い出した?」
「まあ、一応」
「じゃあ、いいよねー」
嬉しそうに俺の顔を見上げる。
「……約束だからな」
半ばあきらめてうなずく。
「そうそう。約束はきちんと守らないとね」
ころころと笑いながらそう言う希望。
「それじゃ、出発しんこー」
そう言って、俺の腕を引っ張るように希望は歩き出した。
§ §
さくら通りを二人でゆっくり歩く。
希望がウインドウに飾られた新しい服が見たいと言ったので、まずはカジュアルショップに足を向ける。
そこで、あれこれと試着して店員を冷やかしながら最初の一時間が終わった。
次は俺の主張でゲームセンターに入る。
いつもやってる、発表された年代の下二桁がついた格闘ゲームではなく、ごくごく普通のアミューズメントコーナーで、クレーンゲームにコインを投入する。
……結局、千円を投入して一つも取れなかったりして地団駄を踏みつつ時間が過ぎる。
その後、腹が減ったので、俺達はファーストフードの店に入った。
注文したハンバーガーは相変わらずの安かろう悪かろうなパン質だったが、特に気にならなかった。
そして、二人でそれを食べている間中、話をした。
学校のこと、家でのこと、今夢中になってること、これからやりたいことを。
昼飯の後には、本屋に行った。そこで、漫画と参考書を一冊づつ買った。
希望は「最近まじめなんだね」と言いやがったので、俺は胸を張って「元からこうだ」と言い返しておいた。失礼なことに希望は声を殺して笑った。そんな彼女に、ちょいと俺は小突きをいれた。
その後は通りの裏道に入った。希望は、そっちには揃えのいいCD屋があると自慢げに言っていた。
ところが、店の前まで行ったら、あいにく今日は休業日だった。
俺は自信たっぷりだった希望を笑うつもりだったが、思ったよりしょんぼりしていたので、「残念だな」と慰めた。
そして、そのまま裏道を歩く。
道を抜けると、よく行く近所の公園に出てきた。
知っている場所へ知らない道がつながっていたという事に、なんだか不思議な感覚を覚える。
今度から、この道で来ると近いねー、と希望が言った。
俺は、黙ってうなずいた。
今日は、すべてが新鮮だった。
今日は、すべてが輝いていたように思えた。
そして、俺達は今日一日中を大したことのないことで、でも実際は大したこととして、過ごした。
そうして、夕焼けが訪れる。
§ §
「日が落ちるのも、早いな」
「そうだね……」
公園のベンチに腰を下ろしながら、俺は赤く染まった空を見つめていた。
夕日がきれいだった。街の西へと沈みゆこうとする紅の太陽。一面に赤く染め上げられた九月の空。
「来月は、もう秋だものね」
希望は遠くを見ながらつぶやく
「……こうやって遊んでると、すぐに時間が過ぎちゃんだよね」
そう感慨深げにつぶやく。
「いくつになっても、それは変わらないんだね……」
希望は遠くを見ていた。
「……そりゃそうだろう」
その姿に、何故か俺は既視感を覚えていた。
同じだった。
この間の時と。
桜の丘の時と。
遠くを見つめる瞳。
ここではない場所、今ではない時。それを見通されてるような感覚。
不安になる。
理由のないあせりに。
いつか、すべてが崩れ去ってしまうような感覚に。
だから俺は、あえて一般的な返事を口にした。
「楽しいことをしてるときは、時間なんかあっという間に過ぎてしまうものだからな」
「舞人君もそう思ってるんだ?」
「ああ」
「……そうなんだ」
そう言って、じっと俺の顔を見つめる希望。
「うれしいな」
そして、希望は頬を染めて笑った。
……。
……は?
「ありがとう、舞人君」
「……」
一瞬、話の流れが見えずに固まってしまう俺。
「どうしたの、舞人君?」
「へ? あ、その、そうそう、ちょっと考え事をしておりましてね」
なにか不審に思った目で俺をじっと見つめる。
「私と一緒にいて、楽しくなかったの?」
そう言って希望は哀しい顔になった。
「あ、いや、ホラ、希望と一緒にいて楽しくないわけが無いじゃないか。ははは」
あわててごまかす俺。
「一瞬話がみえなくなっただけだってー」
「む……。うそついてたりしてない?」
追求の視線で俺をにらむ希望。
「な、なにを根拠にそんなことをおっしゃいますやら希望さん。この桜木舞人、決してそのようなことを考えたりしていませんですよ、はい」
「敬語」
希望が言った。
「敬語になってる時は、舞人君必ず嘘ついてるときだもん」
追求の視線は俺にロックオンされたままはずれない。
諦めて本当のことを話す。
「悪かった。確かに一瞬他のこと考えていたんだ」
「何を考えていたの?」
ブランコを揺らしながら、希望が聞いてきた。
「……この間の夕焼け空、覚えているか?」
「うん。私が丘に連れていってあげたときだよね」
俺は無言で頷いた。
「あの時のことを思い出していたんだよ」
山間に消えていこうとする夕陽を見ながら口を開く。
「なんだかな、……何処かで見た気がして」
「……そうなんだ」
希望は不思議そうに俺を見て、そして、夕陽を見た。
すっかり暗くなるまで夕陽を眺めていた俺達は、学校の帰り道のように希望の使うバス停まで一緒に歩いた。
その間、特に会話を交わさなかった。
うん、とか、ああ、とか、ほとんど意味のない言葉の羅列だけを交わしていた。
十分ほどの時間を掛け、俺達が目的のバス停にたどり着くと、背後から、ぷあー、っという音が聞こえてきた。
振り返ると、よたよたと坂を上ってくるバスの姿があった。
「バスだね」
「ああ、バスだな……」
どうやら、今日のイベントはこれで終わりらしい。
「なんだか、いろんな事があったな」
「うん……あったねー」
そう言って、ゆっくりとやってくるバスを眺めながら二人して話をする。
きゅきゅーっ。
妙に甲高い音を出して、バスが俺達の前で止まった。昇降口が開く。
「……じゃあ、また明日ね」
「ああ、じゃあな、希望」
視線が交錯する。なぜかお互い沈黙してしまう。
「……希望?」
「駄目だよ、そんな別れの挨拶は」
そう言って悲しそうに笑う希望。
「やっぱり最後はちゃんと再会を約束する言い方をしなきゃ」
「いいじゃないか。別にもう会えなくなるわけじゃないだろ」
大体明日は学校があるんだから、朝早くから顔を合わすことになるのに。
「駄目だよ。なんというか……性分なのかな? やっぱりきちんとしておいた方がいいと思うの」
一度顔を伏せ、そして不安そうに再び顔を上げる希望。
「……んじゃ、
『アイル・ビィ・バック!』」
親指を立て、宣言する。
「うーん、なんだか熱い気持ちは伝わってくるけど、溶鉱炉の中に融けて消えちゃいそうなのが難点だね。シュワルツェネガーことシュワちゃんも草葉の陰で泣いてることでしょう」
「いや、まだ死んでないって、あの人……」
そういえば、続編を作るんだったな、などととりとめのないことを考える。次回作の主人公は変わるとかいってたような気がする。
……期待させるだけさせておいて、こけたりしないだろうな。
「じゃあ、ごく当たり前のでいいか?」
そう言って希望の方に向き直る。
「うん。それで十分だから」
目を合わせる。なぜかお互い、滑稽なほど真剣だった。
「……また明日、学校でな」
「うん。お待ちしています」
希望は笑った。
「それじゃあね、舞人君」
手を振ってバスへと乗り込む希望。
そして、すぐにバスは動き出した。
窓越しに、俺に向かって手を降り続ける希望。
それを、見えなくなるまで振り返す俺。
こうして、俺達の九月最後の日曜は終わった。
バスを見送った後、俺は家路へと続く道をゆっくりと歩いていった。
§ §
桜の花が舞っていた。
美しく、はかなく舞っていた。
そして、そこには一人の女の子。
彼女は丘に立つ桜を見上げながら、ただ立ちつくしていた。
まるで、……誰かを待ち続けるように。
その横顔は悲しそうで。
その横顔は辛そうで。
だから。
その表情が忘れられなかった。
いや、忘れることなく覚えていた。
いつのことかは覚えていないけれども。
どこであったのかは忘れてしまったけれども。
僕は近づく。期待を抱いて。
僕は近づく。焦燥を抱いて。
かつて、知っていたはずの少女に。
たぶん、好きだったはずの少女に。
近づく僕に、彼女が振り返る。
心まで吸い込まれそうな栗色の瞳。
魂まで引き込まれそうな黒い髪。
「ねえ、……君は誰?」
教えてほしかった。君が誰なのかを。
知りたかった。君が誰なのかを。
長い髪が揺れた。
ゆっくりと、不思議そうに少女は振り向く。
目が逢った。
そして彼女は、僕を見て笑った。
花が咲いたような笑顔だった。
彼女はゆっくりと口を開く。
「こんにちは、舞人君。今日は何して遊ぶの?」
§ §
学校も終わり、辺りは放課後らしく町並みは茜色に染まり始めていた。
「ああ、今日も疲れたなー」
疲労を隠す気もなく、俺はだらだらと歩く。
「もう。それじゃなんだか仕事ですっかりくたびれたお父さんみたいだよ」
いつものように、俺の隣には、しょうがないなぁといった顔を浮かべている希望がいる。
「いや、実際に疲れたぞ。お前だって経験しただろう、今日の体育のあのしごきを! 鬼浅間め、いくら担当クラスが自分の所だといってもあんなに走らせること無いだろうが」
リレーだ徒競走だとかいう理由で、丸々ひと時間走らされてくたくたになった授業を思い出す。
「でも、女子も体育祭の練習だったよ?」
そう言って、俺の顔を見る希望。
「団体競技の練習なんて実質自習じゃないか。同じ体育祭の練習でどうしてこんなに男女差があるんだ。性差別だぞっ! 男女平等じゃないなんて間違っている」
夕陽に向かって力説する。
「うーん、その意見にはちょっと賛同できないな」
「どうして?」
希望の顔を振り返る。
「だって、やっぱり今日は楽だったし……」
そう言って、希望は目をそらしてしまった。
やっぱりこの世は男女平等などではないらしい。思わず悲しみの涙が頬を伝う。
「ね、ところで舞人君」
「んあ?」
希望の顔を振り返る。
「今日って、暇かな?」
「んー……暇と言えば暇だな」
俺の返事を聞くと、希望は何故か恥ずかしそうに俺の顔を見た。
「その……今日、遅くても大丈夫なの」
「……」
思わず足を止めじっと希望の顔を見つめた。
「あ、その……それって、ひょっとして?」
自分でもよく分からないまま、動詞も目的語も不明な内容を答える。
こくり。
頬を真っ赤に染めながら、希望が頷く。
「ままっま、まじ?」
相変わらず意味不明な日本語で俺は確認をとってしまう。
こくん。
再び頷かれる。
「……」
お互い、なぜか無言で立ちつくす。
いや、その、これって、つまりはアレって事だよな? 思わず自問自答をしてしまう。
「とっ、とりあえず、どうしようか?」
思わずうろたえのあまり、俺の方から聞いてしまった。
「う、うん。舞人君が駄目だったら仕方ないけど」
不安そうな顔をする希望。
「ああいや、全然OK! って言うか、気にしないでいいからっ」
何故か裏返る俺の声。
「ととととにかく、……行こっか」
相変わらず裏返ったままの声で俺は、目の前で赤くなっている彼女を促した。
§ §
道中、何時のまにかお互い手を握ったままで、二人歩く。
何処か心臓が体の外に出ていってしまったかのような感覚がずっと支配していた。にもかかわらず、体中から聞こえる心拍音は以上に大きかった。
希望はじっと下を見続けていたが、手から伝わる温もりと脈が俺と同じ状態にあることを教えてくれた。
恥ずかしくて、お互いかをお見ることも出来ず。でも、手はしっかりと握られたまま、一言も言葉を交わすこともなく歩いていく。
どん。
「お、すいません」
外に向けられる注意が散漫になっていたらしく、すれ違おうとした人間と肩がぶつかってしまった。
「ああ? なんやねん。兄ちゃん、それだけかい」
いきなりドスの利いた声で呼び止められた。
見ると、これまた今時お目にかかることなんか無いと思えるくらい見事な典型的ヤンキーの兄ちゃんがすごみをきかせてこっちを見下ろしていた。
「兄ちゃん、人にぶつかっといて『すいません』だけかい」
そう言いながらこちらににじり寄ってくる。
「あ、いいいい、いや、ほんとに悪気はなかったんすよ? ちょっと回りに目がいっていなかっただけだったんで。今度から気を付けますから許して下さい」
へこへこと頭を下げつつ、素早く希望と目を会わす。小声でささやきかけた。
「に、逃げるぞ、希望」
「だ、だめだよ舞人君……」
力無く、でも、決然と言い切る希望。
「なぜっ」
「私、腰が抜けてるから……」
「にゃにぃ?」
桜井舞人、絶体絶命のぴーんちっ。
「おい、兄ちゃん。なにごちょごちょ話てんねん、ふざけとんのか」
そのまま、ヤンキー兄ちゃんは俺の胸ぐらをつかみあげた。
「きゃー!」
思わず、次の瞬間起こる災厄に目をつぶる。
ごつん。
ひときわ大きな音が、目の前のヤンキー兄ちゃんの後頭部から聞こえた。
そのまま、白目にしながら地面へと倒れlこむ。
「何やってるの、舞人兄」
「何をやってるんですか、希望お姉さん」
声を掛けられた方を恐る恐る見ると、そこには、山ほどの商品のつまったスーパーの袋をいくつも抱えた和人と、何故かいびつな形をしたフライパンを持っている瑛ちゃんがいた。
その傍らには、後頭部に巨大な腫れを付け地面に倒れていたヤンキー兄ちゃんをビル路地の間に引きずっていく瑞音ちゃんもいる。
「何というか、ずいぶん物騒な物持ってるんだね、瑛ちゃん」
笑いかけようとして、でもどうしても引きつった笑みを浮かべながら、俺はこの救世主達に話しかけた。
「で、何でそんなものを抱えているの?」
フライパンを指さし聞いてみる。
「フライパンの使い方と言ったら、一つしかないですっ」
そして、瑛ちゃんは元気良く言った。
「お料理の特訓に行くんですよっ」
§ §
俺と希望と和人と瑛ちゃんと瑞音ちゃん。
なぜか、俺達五人は仲良く同じ道を歩いていた。
「なあ和人……」
疑問に思ったことを聞いてみる。
「お前、どこに何しに向かっているんだ? お前の家は逆だろう?」
「いや、その……」
何故か山ほど生鮮食品を抱えさせられた和人は言いにくそうに言葉を濁す。
「実は、今日は瑛ちゃんのお料理の特訓をしに行ってるんです」
すっかり意気消沈している和人の代わりに瑞音ちゃんが答えてくれた。
「そうなんです。これは、頑張って希望お姉さんみたいに何でも出来るすっごい美人になってみせるその第一歩なんですっ」
何故かフライパンを力強く握りしめて言い切る瑛ちゃんだった。
「良かったじゃないか、和人。お前の人生最高だぞ」
そう言って優しく肩を叩く。
「舞人兄は瑛の料理がどんなものか食べたことがないからそんな無責任なことが言えるんだよ!」
珍しいことに、和観さんの前でもめったに限り取り乱したりしない和人が、恐怖におののいている。
「……ちょっと待て。そんなにやばいのか?」
思わず真剣な顔をして聞いてしまう。
「舞人兄……」
そう言うと、和人は急にぷるぷると震えだした。
「ど、どうした、和人?」
「うわぁぁぁぁぁん! 僕、まだ死にたくないよーっ」
そのまま俺に抱きつき大声で泣き出した。
「和人、どんなものってどういう意味よっ!」
そこに割り込んでくるのは柳眉を逆立てた未来のプリンセス候補生。
「うわあ、瑛、聞いてたのっ?!」
「聞こえてるわよ! 和人の馬鹿ぁっ!」
間髪入れずに強烈な跳び蹴りが叩き込まれる。華麗なる足技によって吹き飛ばされた和人は、まるでサッカーボールのように地面の上を何度かバウンドし、ご近所のコンクリート塀にぶち当たって止まった。
「和人君、蹴られる姿も可愛いです……」
何故かそこでぽっと頬を赤らめる瑞音ちゃん。……この子も危ないかもしれない。
「……ところでお前達」
幼なじみだけにしか許されない心からのスキンシップを一通り交わし終えた子供達ご一行に注意を促す。
「なに? 舞人兄」
和観さんの薫陶篤いらしく、よろよろとしながらも、打撃から回復したらしい和人が三人の代表として答える。
「ああ。さっきの質問の続きなんだが、お前達これからどこに行く気だ? こっちの方角って言ったら、俺の家しかないだろ」
まさか、こいつら俺の家に来たりするのか!?
「えーとですね。じつは、この間スーパーの特売日に優しいお姉さんとお知り合いになる機会がありまして、お料理の話したら特訓につき合ってくれる言ってくれたんです」
相変わらずはきはきと答える瑛ちゃん。
「なんて良い話なんだ……。そんな人が今時の世知辛い世の中にいるんなんてなあ……人の世も捨てたもんじゃあないな」
目頭が熱くなった。思わず遠くの夕焼けを見てしまう。
「で、今からその心優しいお姉さんの所に行くわけかね?」
「そうなんですっ」
瑛ちゃんの返事にうんうんと頷きながら、胸をなで下ろした。どうやら俺の家に来るわけじゃないとわかったら、安心しようというものだ。
一人、所在なげに離れて歩いていた希望も、瑛ちゃんの台詞を聞いてほっとした顔になった。
「ところで、その優しいお姉さんはなんて言う名前かね?」
安心した俺は、瑛ちゃんに尋ねてみる。
「はいっ。小町お姉さんっていう、綺麗なお姉さんです」
満面の笑顔で答える瑛ちゃん。
「こまちぃっ?!」
おもわず俺は大声で叫んでいた。
「だれか呼びましたかー、って……せんぱい?」
すぐ背後で、間違えようもない腐れ縁の声が聞こえてきた。
振り返る。そこには、間違えようもなく、北海道の幼なじみがとまどった顔で突っ立っていた。
そして、口を開く。
「あの……、みんな、知り合いなんですか?」
§ §
「いただきまーす」
大小六人の声がリビングルームに響き渡った。
目の前のテーブルに所狭しと並べられていた多数の料理を横目に、俺は感想を述べる。
「しかし、このアパートって、案外広いんだなあ……」
そう言って、こぎれいな部屋を見回した。ちょっとした調度品が品良く並べられ、落ち着いた雰囲気を醸し出している。俺の部屋と間取りは全く同じなのに、何故か狭く感じられるのはどう言ったしだいか。
「それは、単にせんぱいの部屋が散らかってるだけだと思いますけど」
そう言って突っ込んでくる雪村。相変わらず芸人根性を発揮している。
料理の特訓及び披露場所となったのは、雪村の部屋だった。
もともと瑛ちゃんと雪村の約束事だったことから言えば、この措置は当然と言える。
現在、この場にいるのは、俺に希望、雪村、和人に瑛ちゃん、そして瑞音ちゃん。
結局、希望は着いてきたのだった。
まあ、あのまま帰るのはなかなか難しいといえる状況だったからしかたないだろう。
「……舞人君、あまりきょろきょろするものじゃないよ」
眉を寄せて俺の顔をにらむ希望。
「そ、そんなにきょろきょろしていたか?」
自然と声が小さくなる。
「そうですよせんぱい。そんなことより暖かいうちにご飯を食べた方がいいですよ」
そう言って、机の真ん中にある大皿を俺の方に押し出してくる雪村。
「ちょっと自身はないんですけど」
「どれどれ……」
皿をのぞき込む。そこには肉じゃがが山ほど盛りつけられている。
「懐かしいな……」
いい具合にだしが染み込んだジャガイモを箸で突き刺し、小皿の上で割る。そして小さめのかけらを口に運んだ。
「む?」
「ど、どうしました?」
不安な顔になる雪村。
「いや、こいつは雪村のお袋さんの味だな」
「分かります?」
嬉々とする雪村。
「ああ、……まあ二年ぶりだから、記憶が正しいのかちょっと自信ないけどな」
小皿に取られたほくほくのジャガイモを思わずじっと見つめてしまう。
「あ、あのっ。こっちのも食べてみてよっ」
そう言いながら今度は希望からコロッケが差し出された。
「お、おう」
早速先ほどの肉じゃがと同じように箸で割ると、そのうち一つを口に放り込む。
「お、これは食ったことがある味だな」
「あ、わかる?」
嬉しそうに笑う希望。
「ああ、覚えているぞ。俺から弁当代わりのおでんの大半を取り上げた代償として与えられたやつだ」
「そんな風に言わなくてもいいじゃないー」
急に哀しそうな顔になる希望。
「いや、でも嘘は言っていないし……」
「おでんダネをいくつかもらっただけじゃない」
「……半片以外の全部を取り上げておいて何をいまさら」
まあ、確かに嘘は言っていないけど。
「じゃあ、こんどはこっちの方行ってみるか……」
久しぶりに見た一口ハンバーグを皿に移し口に運ぶ。じっくりと噛んでみた。口の中に甘い肉汁が広がる。
「……」
「……ど、どうですか?」
「あ、ああ……」
驚いたことに、そのハンバーグは何故かお袋の味がした。それも、雪村のではなく、間違いなく俺の方のお袋の、だ。
しばし無言でそのハンバーグを見ていた。
ふと顔を上げると、いつの間にか雪村と希望がじっと俺の顔を見つめている。
「ああ、旨いぞ、どれもこれも」
それだけを慌てて言って、そのまま茶碗をとり、ご飯を掻き込んだ。
「ああ旨い旨い。ご飯も旨い」
聞こえよがしの台詞を良いながら白米をがっつく。
二人の顔にはありありと不満の色が取れたが、さすがに旨いと言ったものをこれ以上追及はしてこなかった。
「ねえ、瑛。僕も小町姉とか希望姉の料理を食べたら駄目かな?」
食事が開始されてからも、何も箸を動かさず俺の皿だけををじっと見つめ続けていた和人が言った。
「駄目! 和人はちゃんとこのお料理を食べるのっ!」
そう言って、瑛ちゃんは山のように盛り上げられたコロッケらしきものを和人の目の前に積み上げる。
「かくれんぼで捕まったら特訓につき合うっていう約束をしたの忘れてないよね、和人」
「……舞人兄ぃ」
和人にしては珍しいことに、泣きそうな声を上げる。
「……」
しかし、瑛ちゃんのこちらを見る視線が痛いので居心地悪く黙る事にする。
「あ、あの。舞人兄の小さいときはどんな感じだったの?」
無理矢理話題を作ってごまかそうとする和人。うむ、天晴れだぞ、和人。
「……そうだね。私も多少は気になるかな」
希望が和人の意見に首肯する。
そう言いながらも、瞳はえらく真剣な光をたたえていた。
「和人君。だからといって、せっかく瑛ちゃんのつくってくれたものを食べないのはいけないと思いますよ?」
「い、いや、ほら、話を聞いた後で食べるからさ。ご飯食べながら他のことをやるのって行儀が悪いから。佐伯家第六条にもきっちりとそう書かれているんだ」
瑞音ちゃんの追及から逃れるべく必死で伝家の宝刀を持ち出す和人。
「でも、第五条は『食欲は何より優先すべし』ですよね?」
しかし、瑞音ちゃんの言葉はもう一歩上手だかった。
「……食べてくれるよね、和人?」
相変わらず救いを求めるようにこちらを見る和人。かといって、ここで船を出すと攻撃対象は俺にシフトしてしまう。
「まあ、どっちかに一つにしないと行儀がよくないよな」
全く解決にならないことを言ってその場をごまかす。
「舞人兄ぃー」
涙を浮かべて抗議を行う和人を、綺麗さっぱり無視しつつ、俺はひたすら自分に出された食事を平らげていた。
「じゃあ、食べてくれるね」
満面の笑みで和人を逃げようのない状態に追い込む瑛ちゃん。
そして、容赦なく和人の口の中へと自らの作った修行の成果を運んでいく。
「う、うぁぁぁ!」
悲鳴が上がった。
§ §
くらい夜道。すっかり遅くなったバス停までの道を俺達は歩いていた。
「……ねえ、舞人君」
月を見上げながら、隣を歩く俺に話しかける希望。
「……なんだ?」
振り向く。
「……」
立ち止まる希望。俺もつられてその場に足を止めた。しばし、無言で向き合う。
その場は俺と希望の二人だけだった。和人達お子さま組は、既に家へと送り終えている。
「……ううん、何でもないよ」
何故かそこで口をつぐむ。
「そうか?」
頷く俺。
「あ、行こう。バスの最終便に間に合わなくなっちゃうよ」
そう言って足を歩ませる。
「……ああ」
慌てて追いかける。
再びしばしの沈黙。
「……ねえ」
再び訊ねてくる。
「なんだ?」
「お月様、綺麗だね」
その言葉を聞いて、俺は空を見上げた。
「……そうだな」
満月が綺麗だった。空には雲一つもかかっていない。
「じゃあね、舞人君。私はここでもういいから」
「え?」
驚いて希望を見る。
「ほら、もうバス停は目の前だよ。遅くまでつき合ってもらっちゃっ悪いもの」
そう言って、にこりと笑う。
「後ちょっとなんだからいいだろ。送るよ」
首を横に振って答える。
「ううん。今日は、ここまででいいから」
何故か哀しい顔を浮かべる希望。
そして身を振り返すと、希望はバス停まで駆けていった。
§ §
丘を見上げた。
結局、渋る希望に、バスが来るまで無理矢理つき合ったその帰り。
ふと、帰り道にあたる丘への登り道の前で俺は立ち止まり、丘を見上げた。
丘の上へと伸びる一本の砂利道。
この道の先に立つ二本の桜を思い浮かべる。
空には満月が輝いていた。
首を振って考えを打ち消す。
「……帰るか」
風がすっかり寒くなっていた。長袖の襟を立てなおし、俺は一人帰り道を歩いていった。
アパートの前には、雪村が立っていた。
「お帰りなさいです、せんぱい」
「……何してるんだ、雪村」
さすがにこの状況を問いつめる俺。
「なんでもないですよ」
そして、俺の方を見て、哀しそうに笑った。
「それじゃあ、お休みなさい」
そして、雪村は自分の部屋の中に消えた。
俺は無言でその姿を見つめていた。
空を見上げた。月が、ただ美しく漆黒の闇の中に浮かんでいた。
§ §
長い髪の女の子がいる。
夢の中にいた女の子。
今、目の前にいる女の子。
舞い散る桜の花に連れ去られるように消えた女の子。
桜の丘だった。
なぜだか桜が咲いていた。
辺りを覆う霞のような花吹雪。
僕は、彼女がだれだか分からなかった。
でも、なぜか彼女の黒い瞳が脳裏から離れなかった。
どこかで見たような気がする。
どこかで触れたような気がする。
どこで話したような気がする。
それは焦燥感。
思い出そうとすると、なぜか感じる違和感。
なぜ思い出せないのだろう。のど元まで出かかっているはずなのに。
それがとても悔しかった。
不意に、目の前から咲き誇る桜が消えた。
代わりに現れたのは、花を散らし尽くした桜。
黒髪の女の子はいなくなっていた。
そして、
少年がいた。
朝陽だった。
「調子はどうかな?」
そう、優しく声をかけてくる。
丘の上、いつもの場所。街を見下ろせる思い出の場所。
「まあ、その様子を見れば想像付くけど」
そう言って軽蔑の笑みを浮かべる朝陽。
「やはり、まだ思い出せないかい?」
悔しくて、僕は無言で朝陽を睨み付ける。
その態度にあきれたのか、朝陽は花を付けていない桜に声をかける。
「……どう思う? 桜香」
「……私には分かりません」
渋々とした様子で、木の裏から哀しげな顔をした少女が姿を現した。
「そうか、そうだよね」
朝陽は僕の方を向く。
「じゃあヒントを一つ、おしえてあげるよ」
人差し指を立てて、朝陽が言った。
「どうして君がこんな事をしているのかということについて」
そして、再びにこりと笑う。
「覚えていないだろうけど、君は前も同じゲームをしたことがあるんだよ」
一拍の間をあけて、再び話し出す。
「思い出したかい? このゲームのルールを」
街の方を見下ろしながら、朝陽が言う。
「オッズも、商品も、賭た物さえ代わらない、そんなゲーム。君が今してるのは、そんな代物だ」
そして、彼は振り返った。
「本人に、自覚はないようだけどね」
「……よく分からないよ」
僕は居心地が悪くなって朝陽の視線から目をそらす。
そこには、悲しそうにじっと僕を見つめる桜香の姿があった。
「そうだろうね」
肩をすくませる朝陽。
「僕にはヒトの考えることはよく分からない」
そう言って僕の方を振り返る朝陽。
「でも、全く僕に興味がないわけじゃない。だからわざわざここにやってきた」
じっと僕の方を見つめる朝陽。
「僕も賭けをしてるんだ。ある人とね」
そう言って朝陽は再び笑った。嘲笑だった。
「だから、頑張ってほしい。そうすれば、君も、僕も楽しむ事が出来るから」
その口調が、ひどく気に障った。
「おいおい、そんなに怖い顔をしないでくれよ。言ったろ? 僕は君を応援しているんだって」
嘲りの感情のまま、朝陽は言った。
桜の花びらが舞い始める。
地面に落ちていた花弁が、まるで時を巻き戻すかのように舞い上がる。
「……勝てるといいね、今度は」
そして、朝陽は嗤った。
「僕は……」
「俺は……」
なにを忘れているというのだろう。
§ §
ジリリリリリリリリリリリ……。
けたたましい目覚ましの音が辺りを覆う。
「……」
目に飛び込んできたのは見飽きた天井。
間違えようもなく、俺の部屋だった。
「……夢、か」
ただ、しばらく天井を目にしたまま時間を過ごす。
ベッドの上で目を覚ました俺は、現実と架空とを整理するのに幾ばくかの時間が必要だった。
「……いやな夢を見たな」
なぜだか不安になる。
不自然なほど頭の中はすっきりしていた。
「いや、夢なのか?」
はっきりと覚えている。ここではない場所で行われたやりとり。
実感の感じられないリアルな虚構。
自信がなかった。それは、確信を伴う違和感、とでも表現すべきものかもしれない。
それは、どこかで感じた焦りともいうべき感覚。
まるで何かに焦がれるような心の動揺。
まとわりつく不快な感覚を振り切るように頭を振った。ベットから降り、学校に向かう準備を始める。
荒々しくカーテンを開ける。
見上げた空は、俺の心を代弁するように厚く低い曇で覆われていた。
それが、どうしようもなくしゃくに障った。
§ §
放課後、雨は降り続けていた。
希望をバス停まで送っていった俺は、そのまま家に帰らず、二本の桜が立つ丘をのぼっていた。
ぬかるみになろうとしている山道を、注意深く歩く。
道脇に生えている木々はすでに葉を落としており、細く降り続ける雨に濡られるがままになっていた。
振り仰いだ先は、空から降る水の粒によって霞のようになっており、視界を遮っていた。
その道を、無言で上っていく。
この街に帰ってきてから、幾度となく訪れた場所。
街を一望することの出来る丘の上。
二本の桜が存在する丘の上。
どこか、不思議な感覚を抱かせるあの場所。
その丘を、俺は頂上まで登る。
視界が開けた。
「変わらないな、この風景は」
そこには、前に来たときと同じように、二本の桜の木が、仲良く並んでいた。
まるでそれは、何年も前から変わらないかのように、並んで立っていた。
ふと思う。
この浮かび上がる感想は、眼前に広がる現在の光景と、いつの光景とを比べての感想なのか。
先日訪れたときの風景?
七年ぶりにこの街へと帰ってきたときに眺めた光景?
それとも、この街を離れる前に見た子供の頃の記憶の姿?
結論を出すこともできないまま、俺は空へと高く枝を広げた二股の桜に背中を預ける。
雨に打たれたままになっている幹からじわりと水が服にしみこんでくる。
しかし、不快なはずの感覚さえも、今の俺にはひどくしっくりとしたものに思えた。
そっと傘を畳んだ。
降りつける雨が気持ちよかった。
そのままただじっと、眼下に広がる街を眺める。
雨によって霞むその場所を。
人の営みが繰り返されるあの場所を。
俺が住むあの場所を。
希望がいる、あの場所を。
「……どうしてここに来たのですか」
聞き覚えのある声が俺の耳へと届いた。
「……此処がどんな場所か、あなたはまだ知らないはずです」
背後から、少女の声が聞こえた。
それは、夢で聞いた声。
俺は目を閉じた。
なぜか確信があった。
なぜか疑問を覚えなかった。
彼女が何者なのかを。
それは、この丘で、あの夢の中で、俺を見つめていた少女。
「……それとも、思い出したのですか? すべてを」
「いいや」
俺は首を横の振って否定の意思を示した。
「だから、来たんだ」
俺はそう言った。
「ここに来れば、すべてを思い出せるような気がしたから」
「……思い出してはいけないことでも、ですか?」
ためらうかのように、少女が言った。
「思い出して、悲しくなるようなことでもですか?」
「……」
俺はただ、無言で雨の降り続く街を眺めていた。
「……後悔、しますよ」
それは、夢で聞いた言葉。だけど、あの時とはまた違う口調。
泣きだしそうな哀しみがこもっていた声だった。
「それでも……また来るよ、たぶん」
俺は体を幹から離れた。桜にかけられていた体重が、再び両足に掛かる。
もたれていた感覚が名残惜しかったが、あえてそのまま振り向かず下界へと続く路へと歩んでいく。
「……それが、俺には必要だと思うから」
風が強く吹き、桜の枝が大きく音を立てて揺れた。
「ごめん」
そして呟く。
「俺は……もう一度、会いに来るから」
§ §
丘には二本の桜が立っていた。
優しく風がながれる。
そこでは、桜の花びらが舞っていた。
街を見下ろせる丘の上で、可憐な花をあらん限りに開いた二本の桜が、風に揺られるたびに優しく空へと舞い散らせる。
そこには僕がいた。
僕は、隣と比べると少しだけ小さい桜の木の上で、じっと彼方を眺めてた。
二股に分かれている桜の幹の付け根に座り、丘の下に広がる街を見下ろす。
街も、この桜の花びらのように、薄紅色で染まっていた。
街路樹として街のあちこちに植えられた桜が、ここと同じように花を咲かせているのだ。
この丘一番の特等席の上で、僕は思った。
あそこはどんな場所なのだろう。たくさんの仲間のいるあの街は、一体どんな所なんだろう。
「こんにちは、舞人君」
声をかけられた。
僕は木の上から地面を見降ろす。
木の根元に一人の女の子が立っていた。栗色の瞳の女の子だった。風が吹き、長い黒髪が舞った。
「ね、街はきれい?」
少女が言った。
「……えっ?」
何のことだか分からなくて、僕は困ってしまった。
「ほら、あっち」
そんな僕の様子を見て、もう一度、今度は前よりも強い口調で、少女は街の方を指さした。
「よく見える?」
「う、うん。よく見えるよ。一面桜が咲いているのが」
「わー。そうなんだ」
なんだかよく分からず、適当に返した相づちを聞いて、少女は楽しそう笑った。
「うらやましいなー」
そう言って、街の方を見る少女。
「ね、やっぱり高いところの方がよく見えるよね?」
「うん。そりゃあね」
「いいなあ……」
そう言って、女の子は物欲しそうな表情を浮かべ、じっと僕の方を見上げた。
「……見たい?」
僕は仕方なく声を掛けた。
「うん」
女の子は大きく頷くと、勢いよく両手を僕の方につきだした。
苦笑しながら僕は、思い切り伸ばされた彼女の手にぎった。
「しっかり捕まっていてね」
そう、注意をする。
「うんっ」
満面の笑顔で、少女は答えた。
僕は、繋がれた手をしっかりと握って引っ張った。
§ §
「……どうしたの? 舞人君」
つかんだ手が前後に揺すられる。
「……なに言ってるんだよ……のぞみ?」
俺はうっすらと目を開けた。
「だから、なに寝ぼけてるの、舞人君」
聞き覚えのある声だった。
それは、毎日聞かされる少女の声。
「え、……あれ?」
目の前には、街はなかった。代わりにあるのは、すっかり葉を落とした桜の枝と、高い高い空。
そして……。
白と青のストライプ?
「……希望、見えてるぞ」
「え? ……きゃあああああああ!」
ごこん。
悲鳴とともに両膝蹴りが叩き込まれた。
寝転がっていた俺には、そのような攻撃がかわせるはずもなく、そのまま顔面を直撃する。
「む、謀反じゃ……。謀反にござる……」
「舞人君の淫逸!」
そう言ってスカートを押さえてうずくまる希望。顔はまっかっかだ。
「ちょっと待て! なにも好きで見たわけじゃないだろうが」
「不可抗力でも数には入るの!」
そう言って怒る希望。
「私、傷物になっちゃったよ……」
「……今更傷物もなにもないだろうが……」
「そういうものじゃないのっ。気分の問題!」
そう言って頭から湯気を出しながら、希望は俺を睨んでいた。
……そういうもんかなあ。
「……ところで、舞人君は日曜日のも関わらず、いったいどうしてこんな所にいるの?」
どうやらそれ以上触れられたくないらしく、希は望話題を変えた。
「俺は単なるひなたぼっこだ。希望こそどうした?」
そのままからかってもいいのだが、後が怖いので俺は話を合わせる。
「私は、アルバイトが早く終わったからちょっと暇になってねー」
「……つまりひなたぼっこじゃないか」
「そうだねー」
そう言って俺の横に腰を下ろす希望。
「こうやって、ここから街を眺めるのも久しぶりだね」
「……そうかもな」
うなずく俺。
希望とは、この丘にはあれ以来来たことがなかった。
この丘は、希望と一緒の時、必ず俺に焦燥感を抱かせるためだ。
「ところで……」
「ん?」
希望が尋ねてくる。
「さっき、寝言で何か言ってなかった?」
「あ、えと、だな……」
「誰かの名前を言わなかった?」
「そ、そんなこと言ってたかな?」
慌ててごまかす俺。
「気のせいじゃないのか」
「いや、絶対あれは女の子の名前だった。私には分かるんだから」
妙な自信と勢いで、希望が俺の顔を睨み付ける。
そして、こういうときの決まり文句。
「ね。怒らないから言ってごらん?」
いや、怒ってる怒ってる。希望一二〇%で怒っている。その嫉妬の炎はバーニングファイヤーでも収まらない。ただ表情に出ていないだけで。
だから俺は、
「ええいうるさい! 浮気も男の甲斐性だッ」
……なんて口が裂けても言えるわけもない。だって怖いんだもん……、この人。
そんなことを思っていながら、希望の方を見た。そんな俺を、希望じっと見つめ、返事を待ている。
「……子供の頃の夢だよ……」
あきらめて俺は言った。
「たぶん、子供の頃の夢……だと思う」
「たぶん?」
不思議そうに聞き返す希望。
「よく覚えていないんだよ。もう昔のことだし」
そう言って遠くを見る俺。
「……ね、どんな夢なの?」
希望が、そっと俺の隣に腰掛け、訊ねてきた。
「桜があって、そこに女の子がいて、その子とあそんでいる夢」
確か、そうだったはずだ。
「でも、本当にあったのかどうかもよく分からない夢だよ」
記憶を探り、新たな何かを思い出そうとする。……しかし、なにも浮かばない。
「だからだよ、あんまり言いたくなかったのは」
「そうなんだ……」
そう言うと、希望は納得とも困惑とも取れる表情を浮かべた。
「もうっ! そんな昔のことでうじうじしないっ」
そして、いきなり背中を叩かれた。
「なっ。うじうじなんかしていないだろ」
「だって今の舞人君、ちょっと黄昏ちゃって……らしくないよ」
そう言ってお説教される俺。
「舞人君は、もっと明るくてお調子者なんだから」
「ひどい言い方だな……」
そう言って、俺は苦笑する。
草に覆われた地面に寝ころび、再び空を見上げた。
「……ね、舞人君」
希望が口を開く。
「なんだ?」
「この桜の木って丈夫かな?」
そう言って、二股の桜を指さす希望。
「……なにする気だよ?」
「うん、あのね……」
希望は木の股に手をかけ、桜に登ろうとする。
「あ、あれ?」
しかし、高さが足りずに上手く上れない。
「仕方ないな」
俺は後ろから希望を抱え上げて、木の股に押し上げた。
「あ、ありがとう」
顔を赤くしながらも、感謝する希望。
「やっぱり一人じゃ上れないねー」
そう言って照れかくしをする。
そして、街の方を見た。
「……やっぱり、きれいだね、ここからの眺めは」
そして、呟く。
「ほんと、懐かしいなー」
「……そうなのか?」
希望の言葉に訊ねる俺。
「私ね……ここに登るのが昔から好きだったんだよ」
そう言って苦笑する希望。
「でも、ここって一人じゃ登れないんだよね。大きくなったから、大丈夫だと思ったんだけど」
「そんなに難しいものじゃないだろ」
「舞人君には簡単でも、私には出来ないことなの」
眉間にしわを寄せて反論する希望。
「私だって女の子なんだから。そんな、木登りが得意なわけじゃないんだよ?」
そう言って、桜を見回す希望。
「……これで、花が咲いていたら最高なのにね」
「え……?」
「だから、春になって、この桜の花が満開になっているときに、こうやってここから街を眺めることが出来たら、最高なのにねって」
そう言って希望は笑った。
俺を見つめる黒い瞳が印象的だった。
風に舞う長い髪が心を動揺させた。
「ほら。舞人君も、来なよー」
そう言って手を差しのべる希望。
それは、まるで花が咲いたような笑顔。
どこかで見た笑顔。
かつて見た笑顔。
「……」
「どうしたの? 舞人君」
「いや……」
返事が詰まる。
「ちょっと用事を思い出したんだ。だから……」
何の用事だろうか。そんなものありはしないはずなのに。
……いや、しなきゃいけないことが、出来てしまった。
「悪い。ちょっと家に帰らないとまずいんだ」
「そうなの?」
「ああ、ちょっとな……」
そう言ってごまかす俺。
「じゃあ、今日はここでお開きかな」
「そうだな」
「それじゃあ、俺、先に帰るから」
そう言って、地面に放り出してあった鞄をつかむ。
「うん、じゃあ、明日学校でね」
「ああ、明日な……」
そして、努めてゆっくりと来た道を引き返す。
今にも駆け出したい衝動を抑え、ゆっくりと、努めてゆっくりと歩いていく。
けして、この動揺を希望に気づかれないように。
§ §
家についた。
ゆっくり歩いていたはずなのに、途中から走り出していた俺は、部屋に転がり込んだときには息も絶え絶えだった。
床に転がり、荒い息を整える。
そして、ポケットに押し込まれていた携帯を取り出す。
ばかばかしかった。
携帯しか電話がないにも関わらず、わざわざ自宅まで帰るというのはひどく滑稽に思えた。
しかし俺は、ほかに電話をかける適当な場所が思いつくことが出来なかった。
携帯の目盛りの登録された番号を選ぶ。
決定のボタンを押す指がふるえた。
「はい……桜井です」
電話に出てきたのは不機嫌そうな声だった。
「……あ、ああ」
言葉が出ない。なにを聞くべきか頭の中で纏まらない。
「何だ、息子か」
不機嫌な声がいっそう不機嫌になる。
「いったいどうした」
絞り出すように声を出す。
「……星崎希望を知っているか?」
一瞬遅れて返事が返ってきた。
「……お前のかわいい恋人だろ」
どこか空々しい声。
「和観から聞いたよ。お前、べた惚れなんだってな」
初めて聞いた人間の事を語るような口調だった。
「一人でこくことも知らなかった童貞が、ようやく人様に顔向けできるくらいにはなったんだからな。一人暮らしをさせたくらいのせいぜいの利点だな」
「……話を逸らすなよ」
残念ながら、今の俺には冗談を返す余裕がなかった。いつものように悪態をつくことも出来ない。
「希望を、知っているのか」
再び同じ言葉を口にした。
今度は、長い沈黙があった。
「どうなんだよっ!」
「……知っている」
それは、まるで感情というものが込められていない声だった。
「俺は昔、希望と会っていたんだな。そうなんだな?」
今にも泣きだしそうな声で俺は聞き直す。
ため息を吐く音が、聞こえた。
「……そうだ」
それは、聞き間違えようのない肯定の言葉だった。
「……なあ、昔何があったんだ」
疑問が止まらない。
「何で俺は希望のことを知らないんだ」
困惑が止まらない。
「何で希望は俺のことを覚えていないんだ?!」
分からなかった。
だから、俺は叫ばずに入られなかった。
「……丘に行ってこい」
母親が言った。
「そこで、たぶん待っているやつがいる」
「……朝陽か?」
おそるおそる尋ねる。
「さあ」
半ば投げやった口調で、母親は答えた。
「どんな名前だったか忘れた。でも、行けば分かるはずだ」
そして、言葉がとぎれる。
「舞人」
「……なんだ」
「お前は、私の息子だ。何があっても、それだけは忘れるな。忘れたら業務用加湿器で殴り殺す」
そう言って、電話は切れた。
俺は、しばらく接続が切れたことを知らせる電子音を黙って聞き続けた。
(続く)