目の前に、少女がいる。
 息がかかるような距離に、俺の好きな少女がいる。
 艶やかな長い黒髪の。
 わずかに潤んだ栗色の瞳の。
 薄く開かれた可憐な唇の。
 俺を捕らえて離さないそれらが、ほんのすぐ前にあった。
 口を開くこともためらわれるほどの近距離。
 ただ、じっと俺を見つめる彼女。
 夏の夜だった。
 蝉の声が聞こえていた。
 ガードレール側に置かれた常夜灯が薄明るい光であたりを照らしている。
 すぐ脇の車道を車が走り抜けた。ヘッドライトが俺達を照らし、そのまま道の向こうへと消える。
 一瞬だけ明かりに照らされた彼女の頬には薄く朱がさしているのが見て取れた。
 隣の杜で蝉が鳴いていた。
 路脇の常夜灯があたりを薄明るく照らしていた。
 時々思い出したかのように、車が車道を通り過ぎていた。
「ね」
 彼女が言った。
「これから、舞人君って、呼んでいい?」
 夜中でもはっきりと分かるほどに頬を染めながら、彼女が言った。
「……ああ」
 俺はこわばった表情をごまかすように、ゆっくりと頷いた。
「いいぞ。希望の好きにして」
 緊張でのどが渇いていた。横柄な口調になった事を後悔した。
 しかし、俺の言葉に希望の頬がほっとゆるむ。
 そして、彼女は微笑んだ。
 その優しい笑顔に、心が奪われた。
 その向けられた表情に、
 その嬉しそうな瞳に、
 誘われるままに、
 俺は彼女を抱き寄せた。
 腕の中に、温もりが捕らえられた。
 指が、柔らかな肌に触れる。
 鼻孔に、黒髪のほのかな香りが広がった。
 杜から聞こえる蝉の声も。
 道ばたに立つ常夜灯の明かりも。
 行き交う車の排気音も。
 すべてが遠い世界の出来事に思えた。
「舞人……君」
 俺の行為に嫌がるでもなく、ただ彼女は、俺の胸にその身を預けてくれていた。
「私たち、恋人なんだよね」
 ぎゅっと俺のシャツをつかみながら、希望が聞いてきた。
 ゆっくりと息を吸い、そして吐き出す。
「恋人だろ」
 腕の中にいる彼女に答えた。
「さっき、俺が告白しただろ。もう忘れたのか」
「ううん、忘れてないよ」
 俺の胸の上で、希望はかぶりを振る。ポニーテールに纏めているリボンが大きく揺れた。
「忘れたりなんか、してないんだから」
 そして、思い切り顔を俺の胸に埋めた。
「だから舞人君も、約束忘れないでね」
 希望が顔を上げた。
 すぐ目の前で、互いの息がかかるほどの距離で、視線が絡み合う。
「忘れたらあれだよ。針千本じゃ済まないんだからね」
 目を細め、真剣な顔で希望が言った。
「ああ」
 俺は笑った。
「忘れるはずないだろ」
 笑えたと思う。
 彼女が笑ってくれたから。
 彼女が幸せそうにしているから、
 俺も幸せだったから、
 今までで一番上手く笑えたと思う。
 杜から聞こえる蝉の声も。
 当たりを照らす常夜灯の明かりも。
 行き交う車の排気音も。
 すべてが遠い世界の出来事に思えた。
 そのまま二人、無言で見つめ合う。
 どちらかとなく、俺達は目を閉じた。
 そして……

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