§ §
濃い草のにおいが鼻を突く。
強い光に顔をなぶられ、うっすらと目を開けた。
「……んー?」
視線の先には強い光がある。
深く沈んでいた意識が引き戻されていく。
やがて視界がはっきりすると、蒼い空が広がっていた。
「あれ?」
自分の置かれた状況が飲み込めず周囲を見まわす。何故だか俺は、芝生の上で横になっていた。
「……希望?」
さっきまで自分の目の前にいた少女の名を呼ぶ。しかし、返事はかえってこない。
慌てて周りを見回す。しかし、希望どころか誰も見つからない。
あるのは二本の桜の木だけだった。高々と太い枝を空に向かって伸ばしている。
そこは、緑が広がっていた。丘の上だ。舞人がよく来る場所である。
裾野の先には俺の住んでいる街が見えた。遠くからでも多数の建物が寄り添うように立っているのがよく分かる。
「夢、……か」
ようやく状況を理解する。どうやら横になったあと、そのまま寝てしまったのだろう。
起こしかかった体を再び地面へと投げ出すと、そのまま呆然と空を眺めた。
相変わらず空からは強い光が降り注いでいた。まわりからはひっきりなしに蝉の声が鳴り響いている。
「うるさい……」
もはや騒音にしか聞こえないセミの鳴き声に文句を付ける。
「太陽も太陽だ。夏だからっていい気になりすぎなんだよ」
残暑の気候にまで毒づく。寝ていたときの日陰はいつの間にか移動していたのだ。
「だいたい、俺が横になったときにはあんな場所にいやしなかったぞ。誰に断ってあんな場所まで上がってるんだ。責任者出てこい」
体を起こした。体中でねっとりとした感触があった。服が汗でぐっしょりと濡れていた。顔をしかめつつ立ち上がり、桜の青葉で形作られた日陰の中へと転がり込む。日が遮られたそこは、さっきまで寝ていた場所と比べて格段に涼しかった。
俺は桜の木の幹に体をもたれさせると、葉の隙間から差し込んでいる木漏れ日を見上げた。きらきらと空が輝いている。
八月を葉月とはよく言ったものだ、と思う。
「彼女、か」
誰に聞かせるとはなしに呟く。
それは、三人称ではなく明確な固有名詞。
口にすると、何故か胸が締め付けられる不思議な言葉だった。
今まで、手に入れようとも思わなかったのに、俺は必要ないものだと思っていたのに。
それが昨日、手に入ってしまった。
星崎希望。
俺の彼女。
「彼女、かぁ……」
昨日の夜を思い出した。今思い返しても冗談のような話に思える。
ふとしたことで夜中に出会って、ちょっと一緒に喫茶店に入って、些細なことで口論になって、そして。
馬鹿馬鹿しい勢いで、馬鹿そのものの告白をして、お互いが好きだと分かって。
そして手に入った幸せだった。
まるで夢の中の出来事に思えた。
八月も終わろうとするあの日。夏休みの最後の一週間の出来事。
「……しかし、俺がなあ……」
桜の枝が風に揺られてかさこそと揺れる。
口笛を吹いた。
自然と頬がゆるむ。
あの告白の後、希望をバス停にまで送っていって、そして……。
「うわあああっ」
我に返った。いつの間にやら唇に手を当ててる自分に気が付き、慄然として振り払う。
「全く……」
口元をゆがませて毒づく。
全く、硬派でクールな俺のイメージに似合わないこと甚だしい。
「だいたい、何で俺がこんな事で一喜一憂しなければならんのだ。ほんのちょこっと触れただけじゃないか。今時の学生、キスくらいべつだん不思議でも特別でもないよくあることだろう」
眉間にしわを寄せたまま、ぶつぶつと呟く。
そうだとも。キスくらい今の時代大したことは無い。
あの時の希望の顔を思い出す。
そっと抱きしめたときのあの表情。
驚きと、不安、そして期待が浮かんだあの瞳。
わずかに頬を赤らめ、そっと上を向いたまま、ゆっくりと目を閉じて……。
「……うがぁ!」
再び手が口元にやってきていることに気が付き、いらだたしく頭の中の世界を振り払う。
どさり、と音を立てて、再び背中から地面に倒れ込んだ。そのまま、桜を見上げる。
桃色の花といった一般的なイメージとは違う、緑の葉でその身を纏った二本の木が、青い空の中に浮かんでるように見えた。
いったい何時から希望の事を好きになったんだろうか。
しかし、答えは出てこない。
俺達は、いつの間にか一緒にいるのが当たり前になっていたから。
たまたま同じクラスになって、自然とつるむメンバーになっていた。山彦や、八重樫といった悪友と同じように、俺のそばに居着いていたから。
「彼女、かぁ……」
まだ何とも実感がわかない。何せつい昨日の事だから。
あいかわらず桜の枝が風に揺られて揺れていた。
それを見上げながら、これからのことを考えた。
学園のプリンセスと呼ばれる少女とつき合うことになるということが何を意味するのか。
物騒な親衛隊が構成されているようなお姫様が、俺みたいなひねくれものにかっさらわれたと知れたら、一体裏でどんな目に遭わされるか知れたものではないが……。
希望の顔を思い浮かべる。瞳の奥に、屈託無く笑う少女が浮かんだ。
どうでもいいことだ。学園のプリンセスなんてこと、俺にとって重要じゃない。希望であることが重要なんだから。
ポケットの携帯電話から着信音が響く。
出し抜けに鳴った無粋な音をおっくうに感じながらも体を起こした。
携帯を取り出し、液晶画面をのぞき込む。『メールの着信あり』の表示が見えた。差出人は……『星崎希望』。
慌ててメールを開く。中身を確認した。
『ね、舞人君は今暇? 暇だったらお店の方に遊びに来ない? 今日は早くあがれるって店長も言ってくれたからバイトの後どこかに行こうよ。あ、今から来てくれたらご注文にサービス付けてあげれるかも。
追伸 ということなので、今すぐ返事下さい。分かった?』
メールを打ってる時の希望の顔を想像し、苦笑した。
時刻を確認する。もうじき三時。確かに、間食時かも知れない。
もう一度空を見上げた。夏の太陽は、相変わらず燦々と陽光を大地へ降り注いでいる。
二の腕で額に浮き出ている汗を拭う。桜の幹に手をかけてゆっくりと立ち上がり、体を伸ばした。
桜木の枝葉が風で揺れた。
丘に吹く風が気持ちよかった。
丘の上から、下界に広がる街を見下ろす。
脳裏に、呑気に笑う恋人の顔が思い浮かんだ。
今度は、自分に対して苦笑する。
まったく。せっかくの硬派が台無しじゃないか。
服に付いた土を両手で払い、最後にもう一度背伸びをした。
日差しを遮ってくれていた桜の枝が揺れた。
振り返り、俺は街の方へと下りていった。
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