大して時間もかけず、俺は『なが沢』の前に到着した。
「……あいかわらず地味な看板だな。こんなので本当に客なんか来るのか?」
赤く小さな看板に悪態をついてみる。まあ、俺にとってはどうでもいいことだけど。べつに看板を見に来た訳じゃないし。
「さてと、どんな趣向が待っていますか楽しみ楽しみ。さーびすさーびすぅ♪」
暑い日差しを背に残し、俺は鼻歌を奏でつつ看板に書かれた矢印の示す雑居ビルの階下へと足を踏み入れた。
階段を下りた先には、木枠に磨りガラスといういささか古風な扉が待っていた。お約束のように、『商い中』と書かれた札が下がっているのを確認し、取っ手を引く。
「頼もうっ!」
店の隅々に響き渡る大音量と共に勢いよく扉を開けた。
店の隅々にまで埋め尽くされた客の群(ざっと50人ばかし)が一斉に俺の方を見返す。
「……失礼しました」
慌てて扉を閉め一目散に外の通りまで飛び出す。
「ぜぇ、ぜぇ……。何だあの量は」
生きた心地がしなかったぞ、さすがに。
「客が多いだろうとは思っていたが、今日に限って何であんなにいるんだ」
普段はせいぜい5、6組、多くても20人は越えないんじゃなかったのか?
「どうしたの、舞人君」
「うひょぉぉ!?」
背中からいきなりかけられた声に思わず飛び上がる。
「……な、なんだ、希望か」
見知った顔に胸をなで下ろす。長い黒髪を大きなリボンでポニーテールにしたウエイトレスが困惑顔で訊ねてきた。
「一体どうしたの。扉を開けたと思ったらそのまま外に飛び出していっちゃうんだもの。びっくりしちゃったよ」
「いや、急に夏の日差しを浴びたくなっただけだ」
相変わらず妙な制服(上が矢絣文様の大正女学生スタイル、下がショートスカートというよく分からない組み合わせ)の看板娘にたいして答える。
「そうなの?」
希望はどうにも納得出来ないといった表情を浮かべた。
「そうとも」
俺はとりあえず力強く頷く。
「ところで希望、何用だ。わざわざ追いかけてくるとは」
ごまかすために、俺は希望へ別の話題を問うた。
「あ、そうそう。えーとね……」
そう言って目の前の女は急に考え込む。
「どうした、希望?」
「うん。あ、ちょっと待っててね」
そして、そのまま『なが沢』へと舞い戻る。
「何なんだ、一体」
よく分からないリアクションに、俺は首を傾げた。
そうこうしてると、再び希望が舞い戻ってきた。
「ごめんねー。でも、大丈夫だったみたいだから安心して」
「は?」
満面の笑顔を浮かべた彼女に対して、俺は理解不能の声を出す。
「じゃあ、今からお席まで案内します」
しかし、さっぱり解らないレベルで納得している希望はごくごく自然に対応する。
「ちょっと待て。空いてるテーブルなんてあるのか?」
あの店内に様子からは、そんな事はちょっと思い浮かばない。
「いいからいいから。とりあえず、早く入って下さいな」
そう言うと、希望は俺の手を取り店の中へと引っ張りこんだ。
「おわっ!? ちょっと待て。いきなり引っ張るな」
「はいはい」
人の抗議を無視され、俺は希望に店内へと引きずられていった。
希望になすがされるまま、俺は『なが沢』へと入店した。店内は以前来たときと変わらず、普通の甘味処っぽく赤を基調とした色彩で装飾されている。
俺はそのまま店内の隅々まで埋め尽くす客達を縫って、一番奥へと連れていかれた。
「……あのー店員さん。 ここにはテーブルどころか椅子すらないんですが?」
「じゃあ、そこで待っていてね」
「お、おいっ!?」
慌てて声をかけたが時既に遅し。希望はさっさと厨房の中へと入ってしまった。呆気にとられ、一人その場に立ちつくす。
「なんですかあの女は。わざわざ人を呼び出しておいてこんな奥地に押し込めやがって。この店はお客に対しての店員教育がなっていません事よ!?」
店の中にいる他の客に向かって御近所の有閑マダム風に演説してみたものの、返ってきたのは冷めた視線だった。
「……いや、冗談ですよ? そんな、決まってるじゃないですか。まさか本気でそんな事思ってる分けないじゃんかよう。やだなあみなさん」
わざとらしくそう口にすると、天井を見上げて出来る限り目を他の客と合わさないようにする。
やがてひそひそという声が聞こえてきた。どうせろくでもない内容に違いない。ふんづかまえてやろうとその方向を向いたら、さっと目を逸らされた。ちくしょう。これもそれも希望のせいだ。
「はい、お水」
いつの間にやら戻ってきた希望がグラスを俺に差し出す。
「あのな、希望」
目の前の女をにらみながら声をかける。
「なに? 舞人君」
しかし、本気で嬉しそうな笑顔なんぞ浮かべる希望。ちくしょう。罪な顔しやがって。
「……ご苦労」
俺は希望の持ってきたグラスを受け取り、そのまま中の水を一気に飲み干した。大きく息を吐き、一息つく。
プリンセス・スマイルに当てられたわけじゃないぞ? こういう時は、引いてやるのが男というものだ。そうだろう?
「……ところで、俺の席は?」
店内には空いてる席は全く無い。それは確認済みだ。おかげで俺は、こうやってこの場に立たされている。
「んふふふー。じゃ、こっちに来て下さい」
しかし希望は妙な笑いを浮かべると、再び厨房の中へと入っていこうとする。
「ちょ、ちょっと待て、希望」
さすがに引き留めるべく声をかけた。
「なに? 舞人君」
「だから、俺の席は」
「舞人君の席は、こっち」
そして希望は、厨房の奥を指さし笑った。
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